2018年4/8 若い人のための日曜日の聖書  復活節第二主日 ヨハネ20:19-31 

14世紀イタリアの画家Duccioの作品。イエス様がくすぐったそうなお顔をしています。

あなたは疑り深い方ですか? それとも何でも信じてしまう方ですか?

私は…本当に悪い人間なので、いつも、他の人も私同様に悪いに違いない、と思い込んで疑ってしまう方です。(私の生徒だった皆さんに特に「ごめんなさい」を言いたいです。)

さて、復活されたイエス様の外見に関しては、色々不思議なことがあります。マグダラのマリアは、心から慕っていたイエス様を園丁だと思ってしまいました。エマオに向かう弟子たちも、湖のほとりの弟子たちも、最初は出会った人がイエス様だと気付きませんでした。

また復活されたイエス様は幽霊ではありません。手で触れることのできる傷跡をもち、魚を焼いて弟子たちと一緒に食べたシーンもあります。

私同様疑い深いトマスは、この復活されたイエス様の体に触れることを願って、そのとおりになりました。もちろん彼は、自分一人が仲間はずれにされたという思いから、きっとやけになって「信じるもんか!」と啖呵を切ったのでしょう。そのトマスの「やけ」とその裏に潜む孤独さを取り去るために、彼の視覚や聴覚や触覚を通してご自身を現してくださったイエス様は、なんて優しいのでしょう。

二千年後を生きる私たちは、残念ながらイエス様に「リアル」で触れることはできません。でも、祈りの中では何でもできます。リアル以上にリアルにイエス様に触れることも、イエス様の声を聞くことも、匂いを嗅ぐことも。祈りはバーチャルではありません。

イエズス会の創始者、聖イグナチオは、祈りの中で五感を使うことを強く勧めています。考えてみれば、五感だけが私たちと外界を結ぶ手掛かりですから、イエス様を五感を使って感じ取ることは、深い祈りに繋がります。

「復活」という説明のつかない事柄を、頭を使って説明したり納得したりするのでなく、五感を使う祈りの中で感じ取る方が、ずっとイエス様と生き生きとした関係を持てます。これこそ、「見ないのに信じる人は、幸い」。いいえ、祈りの中で「感じ取る人は幸い」でしょう。信仰は、常に理屈ではありませんから。  (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ20:19-31

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。