この2月から3月にかけて、私の母は肺炎やら何やらで二度入院しました。二度目の入院中には、快方に向かってきた頃、院内感染でインフルエンザにかかり、数日は高熱でほとんど意識がありませんでした。そしてその後、ゼリー食になってしまいました。トレイの上に、丸か四角のゼリーがいくつか載っているだけ。「どれも甘ったるくていや」と母は言い、口を開いてくれません。20~30分かかって小鳥ほどしか食べず、こちらも泣きたい思いでした。92歳ですから、いつ神様のもとに召されても仕方ない、と思っていましたが、やはり元気になってほしい、もう一度、まともな御飯を食べさせたい、もう一度、意味のある会話がしたい、神様、これはわがままでしょうか、と祈りました。
カトリック者の料理研究家、辰巳芳子さん(私の母より一歳年上!)の著作『食の位置付け』には、次のように書かれています。
「食べものを作って与えることは祝福…。だからイエズス様も、はぐれないようにちゃんと食べ、何かと食べものの用意をなさった。あれはやっぱり祝福だったんじゃないでしょうか。…最後は、食べるという形で自分の記念をお残しになった。他の形でも残せないことはなかったのに」。
そうです、最後の晩餐でなくてもよかった、最後の抱擁とか、最後のダンスとか。でも、「最後」は食べるという行為でした。最後の晩餐の準備を弟子たちに指示し、「これは私の体、これは私の血。これを私の記念として行いなさい」と。そして、復活されて弟子たちに現れた時も、「何か食べる物ないの?」と魚を召し上がります。
この「食べる」という私たちの日常的な行為を大切にし、聖化してくださったイエス様だからこそ、私たちにはイエス様の言葉がきちんと伝わるのではないでしょうか。もし、復活されたイエス様が、私たちに手足を差し出し、魚を食べて実在を確かめさせることなく何かを伝えたとしたら、私たちは亡霊からのメッセージ、自分の目の迷い、と思ってしまったかもしれません。今回の福音書の「何か食べる物ないの?」という言葉は、唐突なようでいて決してそうではありません。前回書いたように、復活されたイエス様のお姿は、ずいぶん不思議なお姿でしたが、食べるという行為を通して、変わらない「私たちのイエス様」であることを示してくださっているのです。そして、復活というキリスト教の神秘中の神秘を、あまりに難しいものにしないためにも、役立っていると思います。さらに、私たちは「食べる」という行為を通してもイエス様の証人となりうる、というのは考えすぎでしょうか。
母は、明日、退院する予定です。ゼリー食にも感謝しなくては、と思っています。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ルカ24:35-48
(そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、)道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。