2018年4/22 若い人のための日曜日の聖書  復活節第四主日 ヨハネ10:11-18

ラベンナ(北イタリア)に残る5世紀のモザイクの「良い羊飼い」の壁画

昔々の冬の夜のこと、仕事から帰ってきた父が、「いいものを拾ってきたよ」とコートの胸元から取り出したのは、一匹の子猫でした。捨てられようとしていたところをもらったとのこと。父は、無骨な人でしたが、弱いものには優しい人でもありました。痩せた子猫を見て、母と私は同時にキャーッと声をあげました。私は喜びの叫び、生き物の苦手な母は恐怖の叫びを。

ところがこの子猫、一番懐いたのは、拾った父でも、正式な「飼い主」の私でもなく、母でした。なぜなら、苦手でありながら子猫にミルクをやり、やがて煮干しや魚のあらをやって養ったのは母でしたから。

旧約聖書に登場するナタンという預言者が、次のようなたとえ話を語っています。

貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い、小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて、彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。 (サムエル記下12)

聖書の世界の中で、羊はもちろんペットではなく羊毛をとって売るための有用な家畜です。でも、このシーンを読むと、まるでペットのように、いえそれ以上に羊を大切にしている様子がうかがえます。そして、イエス様はまさに、この「貧しい男」のように、私たちを大切にしてくださる「良い羊飼い」だ、とご自分を私たちに紹介してくださっているのです。

しかも、羊のために命まで捨ててくださる羊飼いであり、さらには、「私(イエス様)の羊」だけでなく、「この囲い(教会と考えてもよいでしょう)に入っていないほかの羊」も導いてくださるし、これらの羊もイエス様の声をちゃんと聴き分ける、と言われます。

さて、羊である私の耳は、私のために自ら命を捨ててくださったイエス様の声を聞き分けているでしょうか。「囲いの中の羊」だから大丈夫、とかえって耳を閉ざしていないか。または、うっかり別の人を羊飼いと間違えたり、物や悪霊!を「私の羊飼い」にしていないか…。

神様、昔飼っていた子猫のように、あなただけが私を養ってくれる方だとはっきり分からせてください。あの子猫ほども賢くない私ですから。  (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ10:11-18

(そのとき、イエスは言われた。)「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

聖劇の中のかわいい羊飼いさんと羊さん