2018年4/29 若い人のための日曜日の聖書  復活節第五主日 ヨハネ15:1-8

調布修道院チャペルのステンドグラスの上部にある「ぶどう」。

ウーバ、ビーッ、ビーニャ、サルミエント、ビーノ、ラシモ。

何かの呪文ではありません。スペイン語で順に、ぶどうの実、ぶどうの木、ぶどう園、ぶどうの枝(蔓)、ぶどう酒、ブドウの房。

お気づきですか?

日本語では、ほとんどが「ぶどう」ともうひとつ別の名詞を繋ぎ合わせて出来ている「ぶどう」に関連した単語が、スペイン語では似てはいるものの、すべて独立した一語になっています。

以前から、ある文化圏で大切にされている「もの」は、細分化されて言語に定着しているのだなあ、と思っています。

たとえば、日本語の、早苗、稲、稲穂、米、ごはん、ライス(パンにしますか、ライスにしますか、ときかれる時)。

地中海文化圏で、ぶどうがどれほど身近で、大切にされている作物か、スペイン語を勉強し、今回の福音書を初めてスペイン語で読んだ時に、辞書を引きながら実感しました。

そのぶどうに、私たちはたとえられているのです。

「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。

私は、この聖句、ヨハネの13章を読むとき、同時に「コリントの信徒への手紙I」の13章を思い出します。

「たとえ、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」。

キリスト者にとって愛とは、まず第一にイエス様と繋がること。

イエス様に繋がっていない「実り」は、実は実りではないのです。

どのような動機であれ、何かよいことを成し遂げれば、世の人は称賛してくれるかもしれません。

称賛されるのは嬉しいし、それで満足、という人を責めることはできません。

でも、その「よいこと」が、たとえ小さなことであったとしてもイエス様のためだけである時、本当の意味で全人類のためとなりうる―これがキリスト教の考え方です。

これ以上うまく説明できません。

イエス様と繋がった枝となり、新鮮で甘い実を結びましょう、たとえ小さなことでも。 (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ15:1-8

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」