2018年5/6 若い人のための日曜日の聖書  復活節第六主日 ヨハネ15:9-17

高校時代にレッスンした「愛の喜び」の楽譜

「愛の喜び」といったら、何を想像しますか?

長い間音楽と共に生きてきた私は、この言葉を耳にした瞬間、「マルティーニの失恋を歌う歌曲か、クライスラーの華やかなヴァイオリンの小曲か、それをピアノ曲に編曲したラフマニノフのものか」と思ってしまいました。

違うんです!

 

2016年3月に公表された、教皇フランシスコの現代の信徒へのメッセージのタイトルが「愛の喜び」。現代における家庭の問題を扱ったメッセージです。

さて、「愛」ほど誤解されやすい言葉、そして概念はないかもしれません。

以前明治学園の小学校のシスターが、宗教の時間に「愛」という言葉を口にしたら、「イヤラシイー」と言った男の子がいたとか。シスターはびっくり。小学校低学年の子でした。その子の6~7年の日本語環境の中で、「愛」は「イヤラシイコト」と結びついていたわけです。

分からなくもありません。中高生の生徒たちも、「神の愛」という言葉を聞きながら、「自分の今まで知っていた『愛』とは別のもの」と区分しながら聞いているのかもしれません。

そして言葉が行動になる時、「愛」はさらに誤解されやすくなります。

イエス様は、今回の福音箇所で、大胆に愛について語ります。「掟を守る」という表現は堅苦しく聞こえるかもしれませんが、その掟とは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。

私は、今、私自身がどっぷり浸かっている修道生活を振り返る時、この掟を果たしていくためにどのシスターも一生懸命だなあと感じます。「やり方」は異なりますから、時に「愛」を「愛」として受け入れることが難しいと感じることがあります。ある人からは「縛られている、支配されている」と感じますし、ある人には「無関心で無視されている」と感じることがあります。相手にしてみれば、どちらにしても「愛」の表れなのです。

そして、この誤解を、ある時ははっきりと指摘し合うことで、ある時は黙って耐えていくことで、「互いに愛し合う」ことが、成就されていきます。それは、決して快い道ではありません。でも、これこそ、イエス様が「新しい掟」として教えてくださっている大切な生き方であり、私たちにできる「友のために自分の命を捨てること」です。

さて、私が具体的に体験しているのは「修道生活」ですが、恋人同士も、友情も、ご夫婦も、親子も、結局は同じ。「互いに愛し合う」ことを、日々、傷ついたり、喜んだりしながら、生きていくのではないでしょうか。冒頭に書いたマルティーニの「愛の喜び」は、歌います。

愛の喜びは一瞬だが、愛の苦しみは生涯続く…
この苦しみの果てに希望を見出すのが、キリスト者の生き方と思います。  (Sr.斉藤雅代)

※写真は、教皇様の『愛の喜び』と、高校時代に練習したマルティーニの「愛の喜び」の楽譜。レッスン中に急いで書き込んだのか、「しっとりと」と書くべきところを「とっとり」と書いていてお笑いです。

≪聖書箇所≫ ヨハネ15:9-17

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

教皇様の『愛の喜び』