いい仕事をしているなあ、いい生き方だなあ、神様としっかり繋がっている人なんだなあ、と思える人がいます。第一に、とても忙しいはずなのに、ゆったりと見える。(実際に忙しい以上に、忙しさを醸し出している私とは大違いだ!)。人から褒められると謙遜に喜び、褒められなくても、あるいはけなされても、淡々とすべきことを果たす。
こういう人(具体的に何人か思い浮かぶのですが)を見ていると、「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず」という今回の聖句を思い出します。ふつうは、毒蛇を手でつかんだりしたら、咬まれて死んでしまいます。つまり、悪意のある人に接したり、悪意を持って接せられたりしたら何らかの害を受ける。不快感、落ち込み、心身の不調、あるいは攻撃的になってしまうなど。
でも、イエス様は私たちを宣教に遣わすにあたって、あるいはこの世に遣わすにあたって、大きな力を与えてくださっているのです。
昨日、私たちの修道院では、誓願宣立50周年・25周年のお祝いがあって、その席での、一人のシスターの挨拶に次のような一節がありました。「修道会に入会して、自分の中にたくさんのよいものがあることを知った。そしてそれが周りの人に役立つことを知った」。もちろん彼女が別の生活を選んでいたとしても、やはり自分の中の「よいもの」を発見し、それを回りの人に役立てたかもしれません。しかし、彼女が修道生活をそのように捉えていることが、とても素晴らしいと思いました。
他者や社会から害を受けず自分を貫くこと。病人に手を置いても治癒という奇跡はおこせないかもしれませんが、その人に小さくても希望を与えることができること。キリスト教を宣教する第一歩とは、まず自分に与えられた「よいもの」、賜物に気づくところから始まると言ってもいいでしょう。そしてそれを生かして生きる時、神様としっかり繋がったよい生き方ができ、「イエス様はこういう方です」と言葉にしなくても、周囲に何かが伝わっていくのだと思います。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マルコ16:15-20
それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕
〔婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。〕