2018年5/20 若い人のための日曜日の聖書  聖霊降臨の主日 創世記11:1-9と使徒言行録 2:1-11

1994年、初めてトロントで若手シスターズの集会が開かれた時のメンバーが今回再会しました。

「それで、あなた方は何語で会議をするの?

「三か国語よ。それぞれが自分の言葉で」。

先日、私たち日本のシスターは、カナダの本部にいらっしゃる修道会の中枢、総顧問のシスター方の来日、という嬉しい体験をしました。その折、私は副総長のSr.エルシリアに上のような質問をしました。彼女とは、ホンジュラスのサンタ・バルバラで同じ修道院に住み、ともに働いた経験があり、私にとっては総顧問の中で一番親しい、気の置けない友です。

実際に総顧問のシスターたちは、二人が英語、二人がフランス語、そして残る一人がスペイン語です。さらに詳しく言うなら、英語といってもアメリカ人とカナダ人、フランス語といってもカメルーン人とカナダ人。この差は当人たちにとってはささいなものではありません。もちろん、五人とも二か国語、ないし三か国語を話しますが。それにしても、私は、この方々には聖霊が働いているのだなあ、と思いました。

復活させられたイエス様は40日間弟子たちと共にとどまりましたが、聖霊を送ってあげる、と約束して天に昇られてしまいました。その約束の聖霊が弟子たちに降り注いだのが聖霊降臨。

さて、聖霊降臨祭の前晩のミサには、創世記のバベルの塔の出来事の箇所が朗読されます。「互いの言葉が聞き分けられぬように」された私たちが、聖霊を注がれることによって「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞」くことになる。私たちの先祖が、傲慢にも「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と考えて実行した罪を、神様は聖霊によって清め、コミュニケーションの能力を回復してくださったのです。

もちろん、小さい子どもでない限り、勉強することなしに外国語を話すことはできません。そして、本当のコミュニケーションが図れるほどに外国語を修得するのは並大抵のことではない、とみんな知っているでしょう。さらに言うなら、同じ言語を話したとしてもコミュニケーションはいつも課題です。神様とのコミュニケーションもしかり。でも、私たちには、その能力が前もって与えられているのです。

面白いことに、この聖霊が注がれたことを祝う聖霊降臨祭は、教会の誕生日とされています。つまり、教会とは単にイエスを神の子と認める人の集団なのではなく、この集いのうちには常にコミュニケーシがある、ということです。このコミュニケーションを広めていくことが、イエス様が救い主であると伝えていくことになる。

私はSr.エルシリアにさらに訊ねました。「それで、意見の合意にはどうやって達するの?

「話あっているうちに、意見が形成されるのよ」。

イエス様は、聖霊のことを「弁護者」、「真理の霊」と紹介しています(ヨハネ15)。真理の上に立たないコミュニケーションは空しいものでしょう。聖霊は私たちを真理の上に立たせ、そして何があろうと私たちの側に立ってくださる。そうされた私たちはまた、まわりの人に真理の上に立つことのすばらしさを伝えていけるのではないでしょうか。   (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ 創世記11:1-9

世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

使徒言行録 2:1-11

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」