2018年5/27 若い人のための日曜日の聖書  三位一体の主日 マタイ28:16-20

我が修道会の「斉藤の三位一体」。本当は四人いたのですが、写真を撮る機会のないままに、今は二人になってしまいました。頑固、意地っ張り、負けず嫌いの面もあるかもしれませんが、神様の愛を知り、世に派遣されている(されていた)見習いたい大先輩方です。

頑固、意地っ張り、負けず嫌い…

先日あるシスターと話をしていて、この三つは「よくあるシスターの性格」と合意しました。

なるほど、まわりの姉妹たちを思い浮かべてみると、大なり小なり、この三つのどれか、あるいはいくつかを持っています。

私はどれか、もうお分かりでしょう。意地っ張りと負けず嫌いです、たぶん。頑固だとは思っていないのですが、どうでしょうか。

シスターであるとは、生まれ育った家族を離れ、多くの場合、見ず知らずだった人を姉妹であり家族であるとしていくのですから、信仰に基づく堅固さや意志を通す強さは、おのずと必要になってきます。そして、一歩間違えば、これらは自己へのこだわりに変容してしまう…かくて、「頑固、意地っ張り、負けず嫌いの三位一体のシスターの出来上がり!」では悲しいですね。何に対して頑固であるのか、何に意地を張っているのか、何に負けたくないのか、よく自分自身を見ないと、とんでもないことになってしまいます。

さて、父である神と子であるキリストと、その二者の愛の交わりのあふれである聖霊は、三位一体という言葉のとおり、私たちの五感では三つのものととらえられる、と同時にひとつの神様です。神様のうちにすでに共同体がある、というところが私は好きです。

創世記の中の「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(1:26)という表現も好きです。神様が自らを一人称複数で語っていらっしゃるからです。そしてこの神様が、私たちをこの世に派遣しながら「私はこの世の終わりまで、いつもあなた方一人ひとりと一緒だよ」と約束してくださっています。

だから、独りよがりの頑固、意地っ張り、負けず嫌いを脱出して、神様と共に歩むことができる。これを確信して生きたいです。 (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ マタイ28:16-20

(そのとき、)十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」