6/3 若い人のための日曜日の聖書  聖体の主日 マルコ 14:12-16, 22-26

ラファエロの「聖体の論議」。天上で、名だたる神学者たちが聖体の聖性について論議しているシーン。

「おっ、食った!」

ミサの中でももっとも大切な聖体拝領(イエス様のお体となったパンをいただくこと)の最中に、一人の男子生徒が叫びました。明治学園の卒業ミサの最中です。

私が務めさせていただいた二校を比較してみると、中高6年間を通して一年に数回ずつミサに与る機会のある桜の聖母学院に比べ、明治学園の生徒の方がミサへのなじみは少ないと言えるでしょう。しかも、普段、昼食時以外にものを食べることに非常に厳しい明治学園において(この厳しさは、桜の聖母学院の比ではありません!)、シスターや信者の先生・生徒が宗教行事の最中にものを口に入れるなんて、とその生徒は実際びっくり仰天したに違いありません。

キリスト教は、「食べる」という行為を宗教的行為とするユダヤ教からの影響もあり、さらにイエス様の今回の福音箇所から、「食べる」ことをもっとも大切な宗教的行為にまで高めました。当然ですね。イエス様がご自身そのものを私たちの心身を養う食べ物として与えてくださったのですから。そして、ご自身を私たちに与え尽くしたイエス様は、もう生きていることはできなかったのです。だから最後の晩餐に続いて十字架の死がある、そう考えることもできます。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)という有名な言葉は、一般論ではなく、最後の晩餐と十字架によって実現されました。しかもイエス様は、「この人は友、あの人は友じゃない」というふうに分け隔てしなかったのです。

さて、私は、だれに向かって「取りなさい」と自分自身を差し出してきたでしょうか、だれに向かって差し出せるでしょうか。また、だれが私に差し出してくれたでしょうか。自分の命を、自分の意志を、自分の時間を。

聖体の主日にあたって、振り返ってみたいです。  (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マルコ14:12-16、22-26

除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。