6/10 若い人のための日曜日の聖書  年間第10主日 マルコ 3:20-35

14世紀イタリアの画家ジョットの「愛」と「嫉妬」の寓意画。ここでは、愛の対義語が嫉妬とされています。「嫉妬」は、頭に巻き付いた蛇にそそのかされて何か(おそらく悪態や陰口)を言っています。手にはお金の入った袋を握りしめ、足は地獄の炎に焼かれているようです。怖いですね。

「あなたは彼女に嫉妬しています」。

若いシスターだった頃、霊的同伴者にはっきり言われたことがあります。

霊的同伴者というのは、一人で祈っていて、行き詰ったり、方向が逸れてしまう時に、神様とのもつれた関係を解きほぐし、いっそう神様に近づけるよう、アドヴァイスしてくれる人のこと。長く祈りの生活を続けるために不可欠な人です。

私はその時、咄嗟に「いいえ、違います」と口では否定しながら、心の中では「ああやっぱり」と思っていました。霊的同伴の場において、私以上にまっすぐに神様とつながっている人には、神様と同じく隠し事をすることができないのです。

 

感情には善悪がない、とよく心理学の分野で言われます。リジューの聖テレーズの言葉に、「私は毎日どのような感情が来るのかを気にしません。ただその感情を味っているのです」というのがありました(この文章を書くにあたって出典を探したのですが、見つかりません。どなたかご存知だったら教えてくださいね)。でも嫉妬に苦しむ人にとって、これほどやっかいな感情はありません。

イエス様を取り巻くある立場の人たちの言動に、私はいつも嫉妬と羨望を感じます。

「どうしてあいつのところばかりに人が集まるのだろう」

「どうして律法学者である私より、あいつの方が宗教者らしい態度をしているのだろう」

「どうしてあいつは言行一致なのに、自分はそうできないのだろう」…

 

「しかたないよ、相手は神様なのだから」と私はこういうつぶやきに対して言ってあげたくなりますが、それを認められないから、彼らは苦しむのです。

イエス様は、そのような人をわざわざ「呼び寄せて、たとえを用いて語られた」とあります。彼らのもつれた感情ではなく、理性に働きかけようと「ものの道理」を語ります。そして「私のことをどんなに悪く言ってもいいけれど、神様の働きかけ(聖霊)には素直になりなさい」。また、イエス様のことを気が変になっていると心配してやって来た親戚の人には、「大丈夫。神様の御心の通りに動いているなら、私も、あなた方も、他の人たちも、みんな神様のもとで兄弟姉妹だよ」と。

神様、相変わらず嫉妬深い私ですが、どうぞあなたの聖心(みこころ)から逸れないように助けてください。今月は聖心の月ですから特に。   (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マルコ3:20-35

(そのとき、)イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのとを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」