7/1 若い人のための日曜日の聖書  年間第13主日 マルコ 5:21-43

先週も書きましたが、今我が家は引っ越し中。そして、なぜかこの私が引っ越しのリーダーのようなことをしています。それで、修室にいても廊下を歩いていても、別のシスターに呼び止められることが始終あります。

たとえば、お客様が帰った後にティーポットを洗おうとしていると、「移動したTVが点かないの」とか「壁にこれを吊るしたいのだけど手が届かない」とか。

それで、ティーポットをそのままにしてその用事を優先しているうちに、何の仕事の途中だったか、すっかり忘れてしまいます。

かくてお茶殻の入ったままのポットを台所に放置したまま、半日くらい過ぎてしまいます。

ポットならまだしも、うっかり眼鏡(悲しいことにもちろん老眼鏡!)やスマホを置き忘れると悲惨です。取り壊し前の広い広い我が家は、置き忘れたスマホに固定電話をかけても、どこもかしこもシーン。「iPhoneを探す」というアプリにどれだけ助けられているかしれません。少なくとも修道院内にあることや、忘れた場所がどの棟であるかが分かりますから。

さて、今回の福音のイエス様は不思議です。人込みをかき分けながら病気で死にかけている女の子のところに向かう途中で、別の女性に引っかかってしまう。私が女の子の母親だったら、イエス様の袖を引っ張って言いそうです。「どうかうちの娘を優先してください。その人は12年も苦しんでいたのですから、あと数時間くらい待てるでしょうに」。しかもそうこうしているところに娘の死の知らせです。「どうしてもっと急いでくださらなかったのですか」。私なら、イエス様に食ってかかるか、その女性に八つ当たりするか…

しかし娘の父であるヤイロは何も言わずに、イエス様の傍らにいました。そして、「恐れることはない。ただ信じなさい」というイエス様の言葉に従います。

この箇所の二つの奇跡物語は、同時に信仰の物語です。出血の止まらない女性もヤイロも、奇跡が起こったから信じたのでなく、起こる前から信じているのです。

「おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」。

「この方の服にでも触れればいやしていただける」。

これらの言葉は二人の信仰をよく表しています。

私たち、イエス様の死と復活の後に生まれた者は、このイエス様が神の御子であり救い主であると、最初から知っていますが、彼らは知らないのに信じたのです。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という聖句(ヘブライ11:1)をこの二人は生きていたのでしょう。まさに、短気な私への福音のようです。 (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ マルコ5:21-43

(そのとき、)イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。

大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。

《さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」イエスがまだ話しておられるときに、》

会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。