8/19 若い人のための日曜日の聖書  年間第20主日 ヨハネ6:51-58

昨年の秋、『ライフ・シフト』という本を読みました。だれもがまあまあ健康で百歳まで生きる時代には、教育→勤労→引退という今までの3つのステージからなるライフ・モデルは通用しない、新しい生き方のモデルを模索しなくては、という内容で大いに考えさせられました。「人生わずか50年」と詠ったのは、笛の名手、若き敦盛を討った熊谷直実。その一節を好んで吟じた織田信長…。二人とも50~60歳で亡くなっています。信長から数えて500年の間に、私たちの寿命は倍になったわけです。

同時に、ひとつの疑問。

「私、百歳まで生きたいのかしら?」「あと40年…」

もちろんいただいた命があり、さらにキリスト者として福音宣教の使命もいただいているのですから、努力しなくてはとは思いますが、「百歳に至るまでの私」を想像することにまだ慣れていない、といった感じです。

さて、この世の命とイエス様のおっしゃる「永遠に生きる」とはまったく別ものですが、寿命の内にある私たちは、この世の生を通してしか「永遠に生きる」を解釈したり、深めたり、望んだりすることができません。では、この世で「永遠に生きる」を実感できるのはどのような時でしょうか。

幸せな時、私たちは「この時が永遠に続いたらいいのに」と感じます。願い事がかなったり、愛する人の心と私の心とがぴったり寄り添っているように感じたりする時。でもそれは永遠に続くでしょうか。残念ながら…続きませんね。

では、苦しみや孤独の中にあって、神様が私と共にいてくださるのを実感した時はどうでしょう。「この時が永遠に続いたらいいのに」。実際は、これも永遠には続きません。聖イグナチオは、神様を強く実感できる時と神様をまったく感じられない時があることをはっきりと記しています。うつろいやすいこの世に、うつろいやすい人間として生きている以上、これは仕方のないことなのでしょう。そして、この揺れを通して、神様が私たちを成長させ、よりいっそうご自分の方に引き寄せてくださるのだと思います。

今回の福音箇所で、イエス様は「私の肉を食べ、私の血を飲むなら、その人はいつも私の内にいられるし、私もその人の内にいるよ」と約束してくださっています。私たちにできることは、この約束を信じて、「この時が永遠に続いたらいいのに」と感じる時も、「この時が一刻も早く終わってくれたらいいのに」と思うような時も、イエス様を通して神様に向かっていると確信し続けることではないでしょうか。この確信さえあれば、この世で「永遠の命」にもっとも近くあることができる、と私は信じています。

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ 6:51-58

(そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。)「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」