9/9 若い人のための日曜日の聖書  年間第23主日 マルコ7:31-37

「エッファタ!」

台風21号が去った後の秋晴れの午後、買い物に出た折のことです。

「私、死ぬのならだれかを助けて死にたい。その方が気持ちいいもの」というかわいい声が背後から聞こえました。

振り向くと、小学校3年生か4年生の一団の下校中でした。

どのような原因であれ自分が死んだら親がどんなに悲しむかには考えが至ってないのでしょうし、「この子を残して死ねない」「この仕事を完成するまで死ねない」といった様々なしがらみにも縛られていない年代です。

それでも、この女の子がこう口にする背景に、何か宗教的なもの、温かく豊かなものを感じさせられました。ひょっとしたら、なかなか自分に死ねない私に、神様が「女の子という預言者」を通して聞かせたくて聞かせた言葉だったかもしれません。だとしたら、私はどんなに耳を開いていなくてはならないでしょう。

「エッファタ」というイエス様の言葉は、耳と口が不自由だったこの人だけに向けられているわけではありません。神様は、私たちが心の目や耳や口を、神様に向かって、人々や社会に向かって開いてほしいと望まれているのです。

私たちがもっと開くことを望まれているのはどこでしょう。

私だったらきっと、「口は十分だから耳をもっと開いてね」と言われそうです。 (斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マルコ 7:31-37
(そのとき、)イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」