9/30 若い人のための日曜日の聖書  年間第26主日 マルコ 9:38-43,45,47-48

15世紀イタリアの画家ペルジーノの描くイエスの死に涙するマグダラのマリア

「何の涙?」…教師だった頃、生徒との面談中に泣かれると、よくこう問いかけました。悲しいのか、悔しいのか、後悔しているのか、単に混乱しているのか。泣いている自分にもう一人の自分が「なぜ泣いているの?」と問いかければ、客観的になれますし、理由がはっきりすれば、自分の気持ちに整理がつきます。

私はどちらかと言えば人前では泣かない方で、生徒は男女を問わずゆるせるとしても、人前で泣く女性を同性ながら軽蔑しているところがありました。ところがつい最近、あることで悔しさのあまり涙があふれそうになって集まりを中座し、後で親しい姉妹に大泣きしながらそのことを訴える、ということがありました。

この自分の反応にショックでもあり、「私にこんな感情表現が残っていたのか」と自らに驚きあきれました。

今回のイエス様の後半の言葉は厳しいです。「あなたに罪を犯させるような四肢は切り捨ててでも、地獄行きを避けなさい」というのですから。私にあてはめるなら、まず人の悪口を言う口をまず切り捨て(大変、フルートが吹けなくなる!)、時に意地悪をする手を切り捨て(オルガンも弾けなくなる!)…何が天の国に入るために残るでしょうか。

それにしても、もっとも厄介なのは感情です。ではどうやって感情を切り捨てたらよいのでしょう。

感情は…切り捨てられませんし、切り捨てるべきものでもないと思います。むしろどんな感情であっても、神様に近づくのに役立てることができます。涙には理由があり、その理由から、「泣くほどの私の感情」がどこへ、何に向かっているかが分かります。涙も、怒りも、喜びも同じです。感情の方向性が分かれば、その正しさも、歪みも見えてきます。そして、これを受け入れてくださるのも、歪みを正してくださるのも、神様だけです。

私の悔し涙は、私がこの4月から身を削るようにして大切にしてきたことを、ある人が貶めたからです。彼女は私の努力など露ほども知らない上に、悪気がまったくなくそれを人前で表現した、というところが私の中の疲れやストレスに触れ、大洪水を引き起こしました。でも、「私はそれを大切にしてきたのだ」ということが分かってよかったと思います。どちらかと言えば、義務感からそうしてきたような気がしていたので。そして、大切にしてきたという私の行為を、神様に褒めていただきました。これで、人がどう評価しようと、十分です(十分のはずです、と言った方がいいかな)。 (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ マルコ 9:38-434547-48

(そのとき、)ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。

わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。

両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」