10/7 若い人のための日曜日の聖書  年間第27主日 マルコ 10:2-16

来日中のSr.サンドラのケーキカット

このところ私は毎日、ウエディング・マーチを練習しています。14日の日曜日に、教え子と元同僚(つまり教師と卒業生)の結婚ミサがあり、そのオルガンを頼まれたからです。かつて、どんな結婚ミサ、どんなウエディング・ドレス、どんな披露宴がいいかな、と(相手が決まっていないことを棚上げしたまま勝手に)想像していた若い自分を思い起こしながら。

結局私のために神様が選んで結び合わせてくださったのはイエス様で、結婚ミサは終生誓願式のミサだったわけですが、それは想像よりも何十倍も何百倍も素晴らしいものでした。そしてその後の結婚生活ならぬ修道生活も紆余曲折はあったし、これからもきっとあり続けるでしょうが、やはり素晴らしいものをいただいたと思っています。「もうだめ」と思ったことは何度もありますが、不思議なことに「修道院を出よう」とは一度も考えませんでした。

修道生活、という名のイエス様との結婚生活のどこがいいかですって? まず、人間の夫だったら、どんなに一緒にいたくても24時間365日一緒にいることはできないでしょ? もしかしたら、夫も私も、二人でいる時間より仕事のパートナーと一緒にいる時間の方が長いかもしれません。でも、イエス様となら、いつでも一緒です。人間の夫だったら、私以外のだれかとも関わりながら生きていくわけですが、イエス様はいつも100%で私に関わってくださいます。これが、神であるゆえの利点!

目に見えないですって? でも私は確かにイエス様を実感できるのです。空気や風、だれかからの愛情や病気の時の痛みと同じように、目には見えないけれど、確かに実感できる―それがイエス様です。

もちろん結婚生活は修道生活に劣る、と言っているわけではありません。たまたま私にとって修道生活が最上であっただけです。「目に見える方がよい」というのは理解できますし、体の関係は二人の結びつきをさらに堅固なものにするでしょう。

最近の日本では、3組に1組が離婚すると言われます。そこに至る原因は様々でしょうし、離婚して幸せになれる人も多いことでしょう。それでもカトリック教会が基本的に離婚を認めないのは、人間の生死と同じく、そこに神様の大きな働きがあると信じているからです。ですから「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。

結婚を考えていらっしゃる若い方々が、神様の結んでくださるご縁を生涯大切にできるよう祈っています。  (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ マルコ 10:2-16

(そのとき、)ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」