雑誌『アエラ』の今年のお正月の号(2017/1/16号)に、「神さま仏さまはどこにいる」と題した記事がありました。特定の宗教を信じていなくても、この不安と迷いの時代に、宗教的環境に身を置き、「日常をリセットしたい」という願望が高まっている、という内容でした。昨年の夏には『成功している人は、なぜ神社に行くのか?』という本が出版されてベストセラーになっています。これは読んでいませんが、アマゾンで目次を見ると、「日本を動かした天下人は必ず神社に参拝している」「次元を何度も超えてしまう! 超強力パワースポット」「特別な成功者だけの秘密にしておく時代はおしまい!」。
なるほど、「特定の宗教を信じるリスクは冒さず、宗教のいいとこ取りをしたい」ということなのでしょう。まあ、私の弱い信仰など、神様から見たらこの類と五十歩百歩かもしれませんから、一概に責められません。むしろ、たとえ「いいとこ取り」であっても、みなさんが何かの折、特に壁にぶちあった苦しい時などに、神様を思い出してくださるとしたら嬉しいことです。
イエス様は、神の国を伝え始めるにあたって、「来なさい。そうすれば分かる」と、ご自分の泊まっていらっしゃるところに、弟子たちを招きました。(ヨハネ1:39)。そしてこの世を去る前には、「神さまの元には場所がいっぱいあるよ。あなた方のために用意してあげるからね。私たちはいつも一緒だよ」と。
もちろんこの世は神様に満ち溢れています。すべては神様がお造りになったのですから。でも、教会、チャペル、修道院のような、特に礼拝用に造られたところには、祈りがしみ込んでいて、その祈りが私たちを助けてくれる、と私は思います。
この二年ほどの間に、たくさんの卒業生がこの修道院を訪ねてくださいました。あらためて訪ねてくださった方々に感謝し、さらに多くの方々を「来てごらんなさい。一緒に考え、祈りましょう」とお招きします。道であり、真理であり、命であるイエス様が私たちを導いてくださいます。(Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ヨハネ14:1-12
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。