10/27 若い人のための日曜日の聖書  年間第30主日 マルコ 10:46-52

13世紀シエナ(イタリア)の画家Duccioの「盲人の奇跡」

私は「一応」、いつもイエス様と共に生きている「つもり」です。

なぜこんな風に「一応」や「つもり」を付けて書いたかと言うと、今回の福音箇所を祈っていて、「ホントかな?」と自分で疑わしくなってきたからです。なぜなら、もし私が今「何をしてほしいのか」とイエス様に言われたら、この即答した盲人のようではなく、「エート、エート」と考え込んでしまいそうだから。

毎日困っていることがあります。「どうして私はこんなふうに考え行動してしまうのかしら」とか「この事態はどうにかならないかしら」とか、「あの苦手な人を何とか避けたいな」とか。でもほとんどの思いは自分の中で堂々巡りしているだけで、イエス様に向かって「助けてください」と祈るのは、余程の場合です。そして、ほとんどの「困っていること」は、「まあいいか」「どうせこんなもの」と放置しています。

このことに気付いて愕然…。これって自らイエス様ともっと親しくなれる機会を捨てているようなものですよね。

一人っ子だった私は、小さい頃、妹が欲しくてなりませんでした。妹を連れた友だちと遊ぶのが嬉しくて嬉しくて…でも、気付いたことがあります。どんなに私に懐いていても、もし遊んでいる最中にころんで泣き出したりしたら、その時は私ではだめだということ。必ず「おねえちゃーん」と泣きながら姉のふところに飛び込むということ。もしお母さんがそばにいたら、「お母さーん」となるのでしょう。

そんなふうに単純に、ころんでイエス様のふところに飛び込んだら、イエス様は「あなたは大人なのだから自分で何とかしなさい」とおっしゃるでしょうか。もしおっしゃるとしても、きっと私を抱きしめて、私がひとしきり泣いた後でしょう。

イエス様、あなたのふところに飛び込む勇気がないのは、私がまだ自分でなんとかなると思っているからです。どうぞ、何事においても、あなたに頼り、願う私にしてください。私があなたと親しくなれるチャンスを失わないよう力を貸してください。

≪聖書箇所≫ マルコ10:46-52

一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。