11/4 若い人のための日曜日の聖書  年間第31主日 マルコ 12:28b-34

現在の修練院メンバーの国際体験

「修練院は愛を学ぶところです」。

これは、正式シスターになる前の期間である「修練期」を定義して、私の修練長であったSr.都成がおっしゃった言葉です。

私にはこの時、この言葉の意味がよくわかりませんでした。いいえ、「愛」が何かさえもよく理解できていなかった、と言えるでしょう。そして、「愛って、『学ぶこと』なのかしら」というのがこの時の私の疑問でした。

修道院に入ってからたくさんのことを学びましたが、一番役に立った(そして今も役に立っている)ことのひとつは、「愛することは、好き嫌いとは関係ない」ということです。

好き嫌いは、ごく自然なことです。人に対する好き嫌いは、食べ物の好き嫌いと似ているかもしれません。

「酸っぱいから」「苦いから」「重いから嫌い」「匂いが嫌い」―様々な理由がありますが、そもそもどうしてそうなったのか、と問うと理由がありません。

人に対する好き嫌いも、「あの人のこういうものの言い方が嫌い」「態度が、考え方が嫌い」「あの声が嫌」―でも、どうしてそうなのかは多くの場合わかりません。

何か別の思い出やトラウマと結びついているのかもしれませんね。

それにしても、「愛することは、好き嫌いとは関係ない」と知ると気が楽です。意志とは無関係に生じてくる好き嫌いを乗り越えて、愛に向かうことができるはずですから。

愛とは、その人を大切にしている神様の心に寄り添うことだ、と私は思います。

特に好き嫌いが愛を妨げている時、その人そのものの内に神様を見出せるなら、その人に必要最小限の敬意を払うことができます。たとえ、ぎこちなくても。そして、「その人」が自分自身であっても。

だから、私自身の言葉で言い換えるなら、「修練院とは、自分自身を含めたすべての人の内に神様の働きかけを見出し、それを大切にすることができるよう、恵みを願い実践していく場です」ということになるでしょうか。そして修道生活全体を通して、同じことが言えます。

「好き嫌い」と書きながら「嫌い」の例ばかり挙げましたが、「好き」も場合によってはその人を愛することの妨げになります。

愛とは、すべての人の一生の課題ですね。

そして、「神を愛し、隣人を自分のように愛する」ということがひとつになるとき、私たちはキリスト者として、あるいはキリストを知る者として成熟に向かっているといえるでしょう。

人一倍好き嫌いの激しい私を修道生活に招き続けてくださっている神様、あなたのみ心に叶う者になれるよう、どうぞ私を導き続けてください。いつの日か、あなたの愛の国である「神の国」に至れますように。

≪聖書箇所≫ マルコ12:28b-34

(そのとき、一人の律法学者が進み出て、イエスに尋ねた。)「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。