11/25 若い人のための日曜日の聖書  王であるキリストの主日 ヨハネ18:33b-37

花園町修道院のイエス像を見にいらした方々

幼子のイエス様が王冠を付け、豪華なマントを羽織っている―そんな像が福島花園町の修道院にあります。「プラハの幼子イエス」で有名なチェコから贈られたもの、ときいています。

そのご像、というより人形は、それはそれは可愛いのですが…ベトレヘムの家畜の繋がれた洞窟でお生まれになり、ボロ布に包まれたイエス様とは、縁もゆかりもないような姿です。私は長い間、このようなイエス像に親近感をもてませんでした。

イエス様は確かに王様です。でもその王国はこの世の国のようではない、とはっきり言われています。

ではどのような国? ピラトたちが区別を付けられなかった国、私たちが主の祈りのなかで「み国が来ますように」と祈っている国はどんな国なのでしょう。

それは、愛そのものであられる神様が中心の「愛が実現しているところ」です。

もっと具体的に言うなら、あなたが今「嫌い」とか「苦手」と思っている人と心から交わることのできるところ。あなたが「愛されたいのに愛してくれない人」「愛さなくてはならないと分かっているのにそうできない人」あるいは「いつも一緒にいたいのにそうできない人」と安らかに共にいることのできるところです。

そんなことが実現したら素敵でしょう?

でも、たなぼた式にそれを待っているだけでなく、努力によってこの世で愛の実現を目指す人は幸いです。その人は、神の国の実現をお手伝いしているのですから。

どうやったら愛の実現を目指せるかですって?

それは、イエス様と同じように「仕える者」になることだと思います。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。(フィリピ2:6-9)

飼い葉おけの中でボロ布に包まれている赤ちゃんを見つけたら、そしてその場にあなたしか居合わせなかったら、どうしますか。私なら、なんとかして赤ちゃんをお風呂に入れて清潔な布でくるんであげたいと強く思うでしょう。その「清潔な布」が、ある人にとっては「王様のような服装」であったのかもしれませんね。

≪聖書箇所≫ ヨハネ18:33-37

(そのとき、ピラトはイエスに、)「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」