3/3 若い人のための日曜日の聖書  年間第8主日 ルカ 6:39-45

水色の傘を持った青年です

「悔しくも図星を刺された」、という思いを割り合い最近しました。

ただ今改築中の修道院の起工式があった昨年暮れのことです。

その日はあいにく一日中お天気が悪く、小雨の中を菊地大司教様が建築予定地の四隅を回って祝別してくださいました。その大司教様に傘をさしかけるお役を、私は建築会社の若い方に頼みました。ところが、大司教様の行動が意外にも素早くて、彼が常に大司教様を小走りに追いかける格好になってしまいました。荘厳な祭服の大司教様の後ろを傘をもったスーツ姿の青年が追いかける様子に、時間繋ぎにキーボードの即興演奏をしていた私はおかしくてたまらず、典礼の奏楽をしながら笑いがとまらない、という生まれて初めての経験をしました。式の後で「ああ、おかしかった」というと、一人の姉妹がすかさず、「シスター、もしあれが姉妹のだれかだったら、怒るでしょ?」

確かにほほえましいシーンではありましたが、考えようによっては、荘厳な雰囲気を壊したのですから、このお役が姉妹だったら、「まったく、何やってるのよ」と私は腹を立てたことでしょう。しかもそれが親しい姉妹だったらなおさら怒ったに違いありません。

この違い、「笑える、ほほえましいと思える」と、「笑えない、怒る」の差はどこからくるのでしょう。

それは親しさの差、身内かどうかの差です。

建築会社の若い方は私にとって「今」は仕事上の重要な協力者ですが、建築が終われば「以前お世話になった方」。そして10年もすれば…懐かしく思い出すこともあるでしょうが、互いに忘却の彼方の人となることは確実です。

でも姉妹は違います。任命によって、別々の修道院に住むこともあるでしょうが、姉妹は身内です。姉妹の失敗や欠点は、いつも「私の失敗や欠点」と重なってきます。心理学の用語でいうなら「投影」。親しい他者のうちに自分自身を見出して、自分が受け入れられない度合いに応じて、その人も受け入れられないのです。

今回のイエス様のたとえは絶妙です。自分の目に丸太が入っている(ありえない!)のに、おせっかいにも親しい人の目に入っている小さなおが屑を「取ってあげましょう」と言うのです。理由は、親切心からではなく、「見るも鬱陶しいから」。しかし実は「見ている」のは親しい人でなく、親しい人に投影されている自分自身です。鬱陶しいのは、自分自身というわけです。

だから、周りの人、特に親しい人の失敗や欠点に腹が立ったり、うんざりしたりしたら、自分自身を見ましょう。そしてその失敗や欠点を赦してくださっている神様を見つめましょう。神様のみが、人ばかり見て自分が見えなくなっている「盲人の私」の目を開き、明るい光を見せてくださる方なのですから。  (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ ルカ 6:39-45

(そのとき、イエスは弟子たちに)たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」