3/17 若い人のための日曜日の聖書  四旬節第2主日 ルカ 9:28b-36

フラ・アンジェリコまたはその弟子による「キリストの変容」

「先生、何で俺らにそーゆう優しい顔で優しい声を出してくれんの?」

昔、高校生の男子からお掃除の時間に言われた言葉。

その直前に、彼らにお掃除をさせるべく文字通り格闘していた私のところに、何か質問があって来た中1の女子に答えた後でした。

時は4月だったと思います。

この時期の中1の声はまだ男女共に子ども子どもしていて、私はつい小学生に話すような仕方で答えていました。

いわゆるマザリーズの小学生版のようなもので、私たちは、だれに教わらなくても、赤ちゃんには高めの声でゆっくりはっきり話しかけ、子どもの年齢が上がるにつれて、大人の普通のしゃべり方に近づけていきます。そこを、高校生に指摘されたわけです。彼らも、きっと怒っている私の凄み(?)のきいた表情と声より、優しい顔と声の方が好きなのでしょう。あるいは、マザリーズにノスタルジーがあるのかもしれません。

さて機嫌のよい赤ちゃんに話しかける時、幸せそうな顔をしていない人はいません。最近のFacebookである卒業生が、「人って、幸せなときは、周りの人を幸せにする行動を取るんですって」と書いていて、大いに共感しました。しかし満ち足りている赤ちゃんは何の「行動」を取らなくても、周りの人を幸せな気持ちにする天才です。周囲の大人は、無意識のうちに小さい赤ちゃんの中で、未来や希望を直観するのでしょう。その幸福感が、たとえば親にとっては大変な子育てをがんばっていこうとか、この子のために平和で美しい地球を残したいといった気持ちに繋がっていくのだと思います。そう考えると、神様が私たちの本能を利用してでも、私たちを導きたい方向に導いてくださっていることが分かります。

裏切りと血と汗にまみれた受難が始まる直前に、神様は「復活のイエス様」の栄光の姿を見せてくださいます。旧約聖書を代表するモーセとエリヤが現れていることから、この瞬間を、旧約聖書の約束が成就し、旧約時代が新約時代に繋がる瞬間と考えてもいいでしょう。この栄光の光に照らされて、私たちもイエス様と一緒に受難の道をたどりたいと思います。弟子たちは、畏怖の念に囚われれて、栄光の光を賛美するどころか、ひたすら怖がっているようですが、復活というストーリーの行きつく先を知っている私たちは、祈りの中で単純に栄光のイエス様を賛美できるのではないでしょうか。  (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ ルカ 9:28-36

(そのとき、)イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。