4/28 若い人のための日曜日の聖書  復活節第2主日 ヨハネ 20:19-31

ルネサンス期のイタリア、シエナで活躍したドゥッチョの描くイエス様とトマス

今、私が一緒に暮しているシスターEは、家庭科の先生で調理がお得意。おいしいお料理を作ってくださるだけでなく、どこかからおいしいものをいただいたり、どこかでおいしいものを食べる機会があると、すぐに自分でも作ってみるタイプ。このタイプの人と一緒に暮していると、ラッキーです。必ずお相伴できるから。

音楽が専門である私は、どこかで音楽を耳にすると頭の中に楽譜が浮かんくるタイプ。こちらは、このことでまわりの人に喜びをもたらすわけではないけれど、二人に共通している点があります。シスターEにしても私にしても、専門分野で「科学している」という点です。言い換えれば、「同じ条件をそろえれば同じ結果が得られる」という科学の大前提を日常の中で自然に生きているのです。

これは、近代を生きる人間の特徴なのでしょうか。

いいえ、今回の福音書のトマスをみると、人間は科学しながら生きるものであるように思われてなりません。

もちろんトマスの場合、自分ひとりが復活されたイエス様に出会えなかった、という事実が、彼を「そんなの信じられないよ」という面白くない気持ちにしていることも確かです。(福音書って、なんて心理学的なのでしょう!)

イエス様は、まるで第一反抗期の子どもをあやすかのようにトマスに言います。「いいよ、君の思うとおりに実験してごらん。でも、実験し終わったら信じる者になってね」。

こう言われたトマスは、実際にイエス様の釘の痕と脇腹の刺し貫かれた傷を見るだけでなく手で触れたのでしょうか。

福音書からはどちらとも断定できませんが、私の祈りの中のトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と言いながら、イエス様に手を触れます。そして、触覚を通して復活のイエス様がトマスの魂の奥底に深く深く刻み込まれます。

それにしても、「見なくても、触れなくても信じる人は幸せな人だ」とは、二千年後を生きる私たちに言われている言葉です。イエス様は、私たち人間が自然に「科学する者」であることを十分にご存知の上で、信仰がそれを超えた次元のものであることを教えてくださっています。そう、私たちは現実にこの世でイエス様を実験することはできませんが、祈りの中でイエス様を確かに見、確かに触れているのです。

イエス様、信仰のない人にはバカのように見えるでしょうが、私に触れさせてくださっていること、信仰を与えてくださっていることを心から感謝します。こんなにつまらない、こんなに始終あなたの意向に添わない小さな私ですのに。でも、今日はただ感謝です。   (Sr.斉藤雅代)

※写真は、今日参加させていただいた、イエズス会無原罪聖母修道院創立60周年、そしてそこにある霊性センター「せせらぎ」20周年のミサです。ここに関わらせていただいたことも、感謝。

≪聖書箇所≫ ヨハネ 20:19-31

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。