5/5 若い人のための日曜日の聖書  復活節第3主日 ヨハネ 21:1-19

「僕のこと好き?

幼い頃のモーツァルトは、このように周りの人たちに尋ねる癖があった、と昔々評伝で読みました。

父に連れられてヨーロッパ中を旅し、各所の宮殿や貴族の館で演奏を披露する日々。時には、音楽的に鍵盤楽器を弾くことより、アクロバット的な芸を求められること。

天才や神童である前に一人の子どもだったモーツァルトにとって、「君が好きだよ」という答えとは、寂しさや物足りなさ紛らわす糧であったかもしれません。

さて、今回の聖書箇所です。復活されたイエス様が、モーツァルトと同じようにペトロに、そして私たちに、この私に、「僕のこと好き?」「私を愛しているか」と尋ねてくださるのです。

単なる「好き」と「愛する」とは別次元のことですが、モーツァルトの問いが自己の存在を確認するものであった(と私は思うのです)とすれば、好き嫌いの「好き」ではなく、「愛する」と置き換えてもいいでしょう。

しかも、三度も尋ねてくださるのです。原文では、三度目には別の動詞が使われていると習いましたが、ぺトロを当惑させ、悲しくさせるほど執拗に尋ねるイエス様。この少し前に、逮捕されたイエス様をペトロが三度否定したことを帳消しにするために三度答えさせた、という解釈もあります。

でも私には、回数よりも、「私を愛しているならば、私が愛している他の者たちの世話をするのは当然のことだよね」と念を押されているように思えるのです。そしてそのためには、他の人に服を着せられて、行きたくないところにも行かなくてはならない、したくないことも、できないと思い込んでいることも、考えもしなかったこともしなくてはならない。イエス様が共にいて、させてくださるのですから。

ペトロさん、あなたがガリラヤ湖畔でイエス様と出会ってイエス様に従おうと決めた時、イエス様が逮捕されて十字架にかけられるなんて思いましたか?あなたが愛するイエス様を裏切るなんて想像しましたか?そのイエス様に愛の確認をされて、宣教活動し、ご自分も十字架にかけられるなんて予想できましたか?そして、のちの世の人々に、「初代教皇」とあがめられるなんて・・・。

私も、若い時に思い描いていたのとはまったく異なる修道生活を歩んでいます。イエス様によってさせられ、できる力も確かに与えていただいています。でも時々私はこの恵みから逃れたいのです。どうぞ私をこの恵みを十全に受け取って、恵みを使う者にしてください。自分の着たい服(役割)から逃げない者にしてください。なぜなら、逃げないで踏み止まることにしか、私の真の幸福はないはずですから。    (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ 21:1-19

その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
《食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。》