
少し前に読んだ本。みことばに関して新たな知見を得られました
「どこが好きだったの?」「声よ、声!」
少し前のFacebookにも書きましたが、亡くなった萩原健一さんは、まだ小学生だった私が憧れたただ一人の「芸能界」の人。
その話をあるシスターにしたら「どこが好きだったの?」と尋ねられました。考える前に私の口から飛び出したのが、「声」という答えでした。
50年以上も前なのに、「み、ずうみに君は身、を投げた」という彼のグループのヒット曲『エメラルドの伝説』をどんなふうに歌いまわしていたか、鮮明に耳が覚えています。同世代の沢田研二さんほど甘い声でもなく、まして加橋克己さんほど美声でもなく、むしろちょっと音程のはずれる萩原さんの声のどこがよかったのか、私自身にも分かりません。あえて言葉にするなら、少し鼻にかかって甘えたようなハスキーボイスが、当時の私の小さなハートを鷲掴みにしたのでしょう。
祈りの中で聞かせていただいているイエス様の声は、もちろんだれの声にもまして私の心をとらえています。
画家や彫刻家など視覚芸術に携わる芸術家がイエス様やマリア様を表現しようとするとき、当たり前のことながら、その人の内にあるそれぞれのイエス像、マリア像を表現します。それらは現実に二千年前に生きていらしたイエス様、マリア様とは、もしかしたら似ても似つかないかもしれません。でも、その芸術家の内面に聖霊が働きかけて形となったものとして、鑑賞する私たちに働きかけます。
祈りの中で浮かんでくる姿や声も同じ。イエス様の声は、深く静かであると同時に、私の内奥をえぐり、何かを掻き立てるような声です。
その声が今日、「私はあなたを知っている」とささやきかけてくださるのです。そして「あなたは私に従う」と断言なさいます。
確かに、従っています。従おうとしています。
でも、あなたの声に掻き立てられながら、使徒パウロの説教を聞いたギリシア人たちのように、行動においては、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」(使徒言行録17:32)…これがいつもの私のパターンです。声には大いに惹かれるけれど、内容には必ずしも従うとは限らない。
イエス様はそれでも、私に呼びかけ続けてくださいます。愚かで迷子になってばかりいる羊の私に、「こっちだよ。従えるまで待ってあげるよ」と。こうしてイエス様が見守って、父である神様に私を渡してくださるというのですから、オオカミがころんだ羊を襲うことはできないはずです。
イエス様、あなたの声に心が自然にとろけるように、あなたの命じることに従える私にしてください。マリア様、どうかそのために努力する私に、祈りで応援してください。(Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ヨハネ 10:27-30
(そのとき、イエスは言われた。)「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」