5/19 若い人のための日曜日の聖書  復活節第5主日 ヨハネ 13:31-33a, 34-35

調和のとれた姿の三本の松。神様の大きな愛の中の私たちの小さな愛のよう。

愛について、3つのエピソード。

まず小学校の教師をしていたシスターの話。

宗教の時間に「神様の愛」について語り始めたら、「愛だって、イヤラシー」と言った生徒がいたんだそうです。いえ、多感な年ごろに入る5-6年生じゃありません。ピッカピカの一年生です!

プロテスタントの作家三浦綾子さんの自伝的小説に出てきた(と記憶しているのですが)プロポーズの言葉。「神様の次にあなたを愛しています」。

私の住んでいる修道院には、以前女子寮をしていた建物があり「友愛の家」という名前です。ギリシア語のフィリアの訳なのか、You and Iなのか…。アガペー、エロス、フィリア…日本語で「愛」と訳されている新約聖書に出て来る三つのギリシア語です。カトリック学校に行った人なら宗教の時間に、そうでなくとも倫理の時間に習ったことでしょう。アガペーは神の無償の愛、エロスは人が何かを満たしたくて探し求める愛、フィリアは友愛、とよく説明されています。

以上、愛について「何となく変だな」と思っているエピソードを3つ書きました。

私は思うのです。「神様の愛」は別格で分類も分析もできないし、そのような方への私たちの愛も、一番とか二番とか順位を付けられないと。そして、別格の大きな大きな「神様の愛」の中に、すべての愛が含まれると。アガペとエロスのような対立概念でなく、ベン図を描くなら「神様の愛」という円の中に様々な円(例えば、無償の愛、恋愛、性愛、友情、師弟愛、夫婦の愛、母性愛、父性愛など)が重なり合いながら存在すると。小学一年生が「イヤラシイ」という言葉で何を言い表していたのか知る由もありませんが、それも神様の愛の中に含まれている。

そうでなければ、「互いに愛し合いなさい」という掟は、絵に描いた餅のようなもので、私たちはどう逆立ちしてもそこに到達することができません。しかも、「私があなた方を愛したように」とイエス様はおっしゃるのです。「できるわけないじゃない!」と、この箇所を祈りながらちょっとした怒りと絶望が私の内に湧いてきました。それは私が、分不相応にも初めから大きな愛に到達しようともがいているからです。

でも、私ができる小さな「愛」の実践が、神様の大きな大きな愛の一部だとすれば、新しい掟を実行することはずっと易しくなります。

愛は確かに難しく考えれば難しいものです。神学者も社会学者も心理学者も人類学者も、現代では脳科学者も、それぞれの立場から色々なことを言っています。でも、たったひとつの微笑み、小さなひとつの心遣いも愛です。愛の泉であられるマリア様、私の考え方がご都合主義だったら、どうか指摘してくださいね。 (Sr.斉藤雅代)

ローマ神話に出て来る三美神は、それぞれ愛と貞潔と美を司ります。そして絵画の中ではこの三柱の女神様たちは、三様でありながら非常に調和のとれたポーズをとっています。あら、わが修道院の庭にも松の三美神が!

≪聖書箇所≫ ヨハネ13:31-33a, 34-35

さて、ユダが(晩餐の広間から)出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆