5/26 若い人のための日曜日の聖書  復活節第6主日 ヨハネ14:23-29

私の父は、長い病気の末、私が17歳の夏に亡くなりました。当時の私は、思春期の女の子特有の「父親嫌い」に陥っていて、さすがに口にはしませんでしたが、唯一の望みは「健康な父親が欲しい」でした。入退院を繰り返す父のお見舞いには決して行かず、必要なこと以外ほとんど口をききませんでした。今思い返してみると、死んでいく父に対してなんと残酷だったことかと後悔されます。しかし不思議なことに、父が自宅でこと切れる瞬間を見ていたのは、私だけでした。母はその時、電話(もちろん固定電話)にしがみついて救急車を呼んでいたので。床の上に半身を起こしてあえいでいた父が、突然静かになってスローモーションのようにゆっくりと倒れていくシーンは、今も脳裏に焼き付いています。

ともかく、父とまとまった話、内容のある話をした記憶がまったくないのです。

復活祭のあと、来週の主のご昇天まで、カトリック教会の日曜日のミサの福音朗読は、ヨハネの福音書を用いて、最後の晩餐のあとのイエス様の言葉や祈りが読まれます。時系列では、これらの言葉や祈りの後に逮捕があり、十字架があるわけですが、復活祭を祝った後に、私たちは弟子たちと共に「あの時イエス様はこうおっしゃったね」「こんなふうに祈ってらしたね」と、思い起こせる構造になっています。ヨハネの福音書が伝えるように、最後の晩餐の後にイエス様があのようにまとめて長々とお話されたかどうかは分かりませんが、おそらくはその時、耳を傾け理解しようとするゆとりのなかったであろう弟子たちと同じく、私たちも復活節の後半にゆっくりとイエス様のみことばを味わえるのは幸せです。

ヨハネ福音書の書き方は、少しずつ重ねて塗りながら凹凸をもった作品ができていく油絵のようです。一筆でさっと描かれた墨絵のようなマルコと比べると、このことは顕著です。私は学者ではありませんから、ヨハネの書き方が私の理解を超える時、その聖句を静かに心の中に繰り返すことにしています。

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」。

いつか聖霊が、私にこのみことばを悟らせてくださる時を楽しみに待ちながら。

≪聖書箇所≫ ヨハネ14:23-29

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」