7/28 若い人のための日曜日の聖書  年間第17主日 ルカ 11:1-13

1994年にトロントで開かれた第一回目の若いシスターたちの集まり

今回の若いシスターたちの集まり

昨晩、一人の姉妹の話をききました。話は、立ち話の愚痴から始まり、ティッシュボックスを挟んでの分かちあいとなり、最後は二つのことを神様に感謝して終わりました。1時間ほどでした。

感謝したのは、以下のことです。まず、私たちが(ある事柄については)とても敏感に気付く特性を神様からいただいていること。修道生活は共同生活ですから、本当は少し鈍くて、おおらかな方がよいのです。敏感さは、自分も苦しみ、まわりの姉妹も苦しませることがありますから。しかし、この「敏感に気付く」という特性から、私たちは、まわりの姉妹に厳しいという自分の罪深さを知り、そこから神様に立ち返ることができます。

二番目に、この気付きを包み隠さず分かちあえる同世代の修友を与えられ、また心からの分かち合いができるように修道会の中で教育されたこと。神様と共に私たちの修練長(シスターの卵の教育係)にも感謝です。

修道生活25周年も終えて心から思うことは、この生活は日々絶え間なく深める覚悟がなければ、後退してしまう、ということです。若い時は、修練長や院長、管区長がある程度ゆがみを指摘してくれたり、方向性を示してくれたりしますが、それ以降は自己責任です。

これは、結婚生活だって同じだろうと思います。子どもが生まれたから終わりとか、子育てが終わったからおしまいとか、何十年も連れ添ったから卒婚ということはないでしょう。単なる惰性で共住しているだけであるなら、一人の人を選び、その人とすべてを(生活全体、心も体も)シェアする、そしてそのことを通して神様と親しくなる、という結婚生活のもっとも素晴らしい部分を失ってしまうことになります。

だから常に、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。修道者であってもなくても、この言葉を響かせながら、生きていきたいです。   (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ルカ 11:1-13

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」