9/15 若い人のための日曜日の聖書  年間第24主日 ルカ 15:1-32

2017年5月7日のこのエッセイにも使った私の好きな「羊をだっこするイエス様」。この年の4月30日に叙階されたサレジオ会の谷口亮平神父様の叙階式のご絵(カード)でした。

今は、99匹の真面目な羊を置いて、迷える1匹の羊を探しに行くのではなくて、真面目な羊が1匹いるとしたらその羊を置いて、逃げ出した99匹を探しに行く。だから、肩に担いで帰ってくるなんてことができない。

笑ってしまいました。

今回の福音箇所には、三つのたとえ話が続いています。「見失った羊」「無くした銀貨」そして有名な「放蕩息子」。

たまたま、先週半ばにこの笑える話を聞いてしまったので、「見失った羊」がここしばらく私の心の中をぴょんぴょんしていました。

しかし、本当に「今は」真面目な羊が少ない世の中なのでしょうか。

私は、「今の若い人は」とか「昔は良かった」的な話が苦手です。いえ、はっきり言えば、大嫌い。
だって、今も昔も、若い人の中にとても素晴らしい人もいるし、ひどいなぁと思われる人もいるからです。
そして、その時点での若い人の中でも、歳をとった人の中でも、素晴らしい人とひどい人の比率はそんなに変わらないと思うのです。99:1ではないにしても、98:2か97:3くらいかな。

つまりひどい人の割合は、学校用語でいうなら1クラスに一人いるかいないか。

むしろ、若い人がみな親切であるのに驚かされるのは、私が年を取ったせいでしょうか。

先日、百均ショップで、一人の高齢の方が「〇〇がないかしら」とつぶやきました。私は割合近くにいたのだけど、〇〇が聞き取れませんでした。あたりにはお客さんはいても店員さんらしき人はいません。困ったな、と思っていたところ、まわりの若い人たちが動きだしました。「こっちにありますよ」と声を掛ける人、「お探しのものはこれですか」とわざわざ品物を持ってくる人、店員さんを探しに行った人…みな若い人で、それぞれ別々に黙って買い物をしていた人たちでした。親切にされた方が「ありがとうございます、ありがとうございます」と繰り返し頭をさげ、売り場一帯にあたたかく和やかな雰囲気が流れました。この光景をたまたま見られた私は、幸運でした。「神の国の実現」を見たのですから。

ただし、逃げ出さなくても迷える羊はいっぱいいると思うのです。いえ、もしかしたら、全員が迷える羊かもしれません。だから、神様の救いが必要なのです。
またもしかしたら、逃げ出す迷える羊よりも、囲いの中にとどまりながら迷っている羊の方が問題が大きいかもしれません。ほら、放蕩息子のお兄さんのように。
でも大丈夫、イエス様の肩は広いのです。囲いの中の羊も、外の羊も、何匹であろうと背負ってくださいます。だから、安心してイエス様の肩に乗りましょう。     (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ルカ 15:1-32

(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」