11/17 若い人のための日曜日の聖書  年間第33主日 ルカ21:5-19

 

昨年の11月1日の、旧調布修道院解体の様子。

ほぼ同じ場所に建った新修道院。

最近、『やさしさ過剰社会—人を傷つけてはいけないのか―』(榎本博明著、PHP新書)という本をよみました。「やさしい人」が好まれる時代にあって、何が本当のやさしさなのか、どのような状況が偽りのやさしさを人に強い、その結果として生きにくい上にも生きにくい社会を築いてしまっているのかなど、心理学者の視点から描かれていました。

本の内容もさることながら、ある方がアマゾンに書いていらしたコメントに心が留まりました。

私は「はっきりものを言う」「キツイ」と言われ続けている。当たり前と思うと同時に一握りの人からは理解されるとはいえ、言われ続けている私自身(この本を読んで)少し癒された」。

このコメントを読んで、私のことのようだ、と思いました。言わなくてもいいことを言い、困った人だと思われている私。

ではイエス様は、人を傷つけないようにはっきりものを言わない人だったでしょうか。いいえ。

イエス様の言葉に傷ついた人はいなかったのでしょうか。いいえ。

イエス様は、言うべきことをはっきりおっしゃる方でした。

神殿の見事さに見ほれている人に、「どんなに美しいものも永遠ではないよ」とまさに水を差すのですから。

つい最近、首里城が燃えてしまいました。ノートルダム大聖堂の火災は4月のことでした。

もしこれらの火災の直前にイエス様と同じ言葉を口にする人がいたとしたら、どんなに嫌われたでしょう。

でも、とても悲しいことですが、すべては永遠ではありません。ノートルダム大聖堂の美しいステンドグラスや、その空間を満たすオルガンの音色に天国を垣間見た人はきっと数えきれないでしょう。それでも、人の手で作った大聖堂は永遠ではありませんでした。きっと、素晴らしい姿に修復されるでしょうが、それも永遠ではありません。

私は今、目の前に完成しようとしている新しい修道院を見、同時にそのすぐ横手で長く使われてきた旧修道院の一部(英語教室)が解体されているさまを見ています。まさにこの朗読箇所が読まれる今週、この様子が見られるということは、本当に恵みです。永遠なものに対するあこがれを、いやがうえにも掻き立てられますから。

私たちは物の世界に縛り付けられていますが、少なくとも心は物から解き放たれて、命を勝ち取りたいものです。イエス様、どうぞそうさせてください。     (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ルカ 21:5-19

(そのとき、)ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

長年、英語系のシスターたちが働いてくださった元英語教室