11/24 若い人のための日曜日の聖書  王であるキリストの主日 ルカ23:35-43

羽田空港に降り立つフランシスコ教皇様

この秋は、台風15号、19号の襲来、その後の大雨によるさらなる水害と、厳しいニュースが続いた後に、皇室の一連の行事が荘厳に執り行われ、普段TVを見る習慣のほとんどない私も何度かTVに釘付けになりました。そして、この原稿を書き始める数時間前に教皇様来日、という嬉しいニュースが入ってきました。

方や王朝絵巻さながらの古式ゆかしいお姿、方や白のスータンにケープというやはり伝統的なローマ教皇の装束。それでも教皇様の方は、ここ50年あまり(4~5代の教皇様)で、教皇冠を着用しない、紋章に教皇冠の意匠を用いない、さらにはフランシスコ教皇様はバチカン宮殿に住まないなど、少しずつですが、司牧者本来の姿、つまりイエス様のように他者に仕える者の姿に戻りつつあるようです。

そうですよね。イエス様の冠は金ならぬ茨でできていましたし、第一代教皇とされる使徒ペトロが金や宝石で身を飾っていたはずがありません。

長い歴史の中で、そのようなもので飾り立てて、権威をはっきりさせる必要があったのでしょうし、その後の教皇様方も、たとえ「これはおかしい」と思ったとしても、そのような慣習から抜け出したくてもできない事情が多々あったのでしょう。そのように想像を巡らせると、王様のようにかしずかれていた方々が気の毒にもなってきます。

イエス様は、潔い王様でした。無言で茨の冠を受け、玉座の代わりに用意されたのは木の十字架でした。尊敬されるかわりに「本当にメシアなら、ユダヤ人の王なら、自分自身を救ってみろよ。そうしたら信じてやるぜ」と嘲られ・・・。

私たちは、この方の兄弟姉妹であり、友人です。シスターであるなら、さらに恋人であり、伴侶であると言ってもいいでしょう。

人生が楽でない時、それでも「あなたは私の恋する人です」と言いたいです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」というみことばを、かけていただきたいので。

明後日、東京ドームで行われる教皇様のミサに与る予定です。イエス様の大切になさった貧しい人々をだれよりも大切にしようとされているこの教皇様とともに祈ることで、私自身の信仰が少しでも強くなったら、と楽しみにしています。

(Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ルカ 23:35-43

(そのとき、議員たちはイエスを)あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

1305~1963年まで用いられていた教皇冠。どう見ても、ペトロにもフランシスコ教皇にも似合いそうもありませんね。