12/1 若い人のための日曜日の聖書  待降節第一主日 マタイ 24:37-44

東京ドームで必死に撮ったミサ前の1枚

「私は目覚めている人を見ました」。

「私は主を見ました」と叫んだマグダラのマリアに倣って、こう叫びましょうか。

その人は、人の心の壁をとろかすような笑顔を持っていました。

その人は、幼い子どもにとりわけ愛を注ぎました。

同時にその人は、兵器の開発や製造、売買を「継続的なテロ行為」と弾劾しました。

もうお分かりですね。フランシスコ教皇様です。

待降節には、よく「目覚めていなさい」という聖書箇所が読まれます。私たちはいやおうなく、この聖句で神様が私たちにどのような状態を望まれているのかと考えさせられます。

待降節直前に来日されたフランシスコ教皇様は、ご高齢にも関わらず、「命を削って」(と、あるTV局のアナウンサーさんだったか、解説員さんだったかが描写していました)果たすべきことを果たし、言うべきことをストレートにおっしゃいました。

私の友人(キリスト者ではないけれど、プロテスタントの学校出身)は、こう感想を書きました。

「テレビで紹介された教皇様の言葉ひとつひとつが心に響いたし、すっきりした気持ちやあたたかな気持ちになったのは初めてかもしれないです」。

神様、教皇様の長崎や広島でのメッセージを聞けた恵み、ごミサに与れた恵みを、どうか私の中の「一過性の感動」にしないでください。私も、この待降節を教皇様のように、まわりの人と共にあなたの救いを待ち望んで目覚めて生きる者にしてください。

(Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マタイ 24:37-44

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」