「どうしてイエス様は永遠に生きて私たちを救ってくれないの?」
宗教の教師だった頃、よく生徒たちから受けた質問です。
ある時は単に福音書に展開されているような奇跡を見たいという好奇心からだったり、ある時は今自分が苦しんでいるこの状況を何とかしてほしいという切実な願いであったり、祈っても祈っても世界に平和は訪れないという苛立ちであったり。
私はいつも答えに窮していました。
信仰の言葉で言うなら、死と復活を経たからこそ「イエスは救い主」なのですが、これを信仰を持たない人、特に若い人に説明するのは困難なことです。
最近、私自身が年を取り、身心共に限界を感じることが多いせいでか、とみに感じるのは、イエス様が単に奇跡ですべてを解決する「スーパーヒーロー」でなくてよかった、ということです。
もしカッコイイだけのイエス様だったら、私は自分の弱さや苦しみをすべてイエス様に打ち明けられたでしょうか。
若い方は、自分の理想にぴったりのカッコイイ異性が現れた、と想像してみてください。
その人に、いきなり自分のみじめさを打ち明けられますか?
特にその人が非の打ちどころのない人のようにみえ、なおかつ私に好意を抱いていてくれているようだったら。
その人とお付き合いして、親しくなったら言えるかもしれませんが、どちらかと言えば、自分の欠点や問題点は隠したいとか、少しでも自分をよく見せたいと思うのではないでしょうか。
これは若い二人にとってはとても自然なことです。
だから、詩人の吉野弘さんは、『祝婚歌』の中でこう歌っています。
二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派過ぎないほうがいい
立派過ぎることは
長持ちしないことだと
気づいているほうがいい
イエス様は、肉体的にも精神的にも霊的にも、想像を絶する苦しみを味わい、みじめな十字架上の死を体験されました。
このことによって、私たちに、裏切られる苦しみにも見捨てられたような死にも大きな意味がある、と教えてくださったのです。
そして、今回の聖書箇所のように、天にあげられたのですが、この期に及んでも、弟子たちはまだイエスの死と復活の意味を悟らず、愚かな夢を見ています。
「今こそ、神様が昔のようにイスラエル王国を私たちの手に返してくださるのですか?」
いいえ。
神様は、この世の政治的革命などというちっぽけなものでなく、もっともっと素晴らしいものを私たちにプレゼントしてくださるのです。
この世に生きているイエス様に出会うためには遅く生まれすぎた私たちは、そのことを知っています。
聖霊降臨の主日に、またこの続きを書きたいと思います。(Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ 使徒言行録1:3-10
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」