3/8 若い人のための日曜日の聖書  四旬節第2主日 マタイ 17:1-9

CND宣教センター「友愛の家」に保存のため設置されたステンドグラスのご変容。後ろの窓枠がちょうど十字架に見えます。

シスターになって4年か5年目。私はそれまで教えていた短大から、6年一貫の中高に移りました。最初は戸惑うことばかりでしたが、数年して、「中高って何てすてきなところだろう」と思ったことをはっきりと覚えています。

その理由のひとつは、6年間という短大の3倍の期間、生徒たちに宗教を教えられること。第二に、学校行事や勉強会で、生徒だけでなく、保護者にもキリスト教を行きわたらせるチャンスがあること。

そして何よりも素晴らしいと感じたのは、反抗期を脱する生徒の美しさです。

ある生徒はゆっくりゆっくり変化して、ふと気が付いたらまったく変わっています。またある生徒はさなぎが羽化して蝶になるように、一瞬のうちに変化して飛び立っていきます。

鬱々としていた子が、まるでつきものが落ちたようにすっきりした顔になり、背筋がぴんと伸びてまっすぐにこちらを見る。その眼差しの澄み切った美しさ。それは、幼い子どもの純真な目とは一味違う美しさです。ちょっと前までまったく無視されるか「クソババア」呼ばわりされていたのに、久しぶりに「先生」と呼ばれるくすぐったさ。さらに「迷惑かけてごめんなさい」なんて言われると、もうメロメロです。

もちろんさなぎを蝶にしてくださるのは神様のお仕事で、こちらはその過程に付き合わさせていただいただけなのですが。

今回の福音箇所であるイエス様のご変容のシーンは、いつも私の中で、このような思春期の変容と重なってきます。ご変容の解釈は別としても、「イエス様のお姿が変わった」という事実は、私たちもまた変わりうるのだ、ということに繋がらないでしょうか。

思春期だけでなく、死ぬまで、いつでも。私も、他者も。

そしてイエス様のご変容が、特に親しい弟子たちに復活の味わいを前もって体験させるためのものであるとするなら、私たちの変容もまた、来るべき日の復活へと繋がっているのではないでしょうか。

つまり「本当の私」「神様が望まれる私」「神様の似姿の私」へと。

神様、私に中高生の変容をたくさん見せてくださって、感謝です。あのように、今の私も変われる、今私が「苦手だなあ」と思っている「あの人」も変われる、新型コロナウイルスによって不安と不信感が漂っているこの世も変われる、ということを信じさせてください。  (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マタイ 17:1-9

(そのとき、)イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。