4/26 若い人のための日曜日の聖書 復活節第三主日 ルカ24:13-35

夕方の正門近くのマリア像。幼子のイエス様が手を高く挙げているかなたの星が、「希望の星」に見えませんか。

今、一番したいことって何ですか?

私は、とにかくどこかに逃げ出したい。

どこかコロナのないところ、コロナ感染を恐れなくてよいところ、だれかとマスクなしの素顔で語り合って、親しい人と握手したりハグできるところ・・・。

ないですね、今、地球上には。

今回の福音箇所の、エルサレムから逃げ出した弟子たちの行動は身につまされます。

ともかく、自分たちがイエスの弟子だったと知られていないところに行きたい。

復活なんて話は作り話か幻覚に決まっているから、ともかく自分たちの身の安全を確保したい。

ところが、このように拒否した当のイエス様が彼らに付いてきてしまうのです。

聖書についてイエス様が語るのを聴きながら、彼らは少しずつ気付いていきます。

あれ、どこかで聞いた話、どこかで知っている感覚・・・

「一緒に泊まりましょうよ」。

夕方到着したエマオ村の宿に引き留めたイエス様がパンを割かれた時、彼らはやっと気づくのです。

「主だ」。

役割を終えたその瞬間に彼らの目の前から消えた復活のイエス様について証言するために、彼らは「時を移さず出発」したとあります。

あれ、もう日が傾いて、夜のはずなのに。

実際には、エルサレムへと帰る旅は翌朝だったかもしれませんが、それほど彼らの心は燃えていたのでしょう。

私たちは、今、ごミサに与ることができませんが、それでも、祈りを通して、聖書を通して、日々の生活を通して、イエス様のみことばを聴くことはできます。

イエス様を身近に感じることもできますし、「霊的聖体拝領」という美しい言葉も知っています。

イエス様、あなたのものであるとは、何と素晴らしいことでしょう。

この恵みを忘れず、もっと困難に直面している感染してしまった人やそのご家族、医療関係者や研究者の方々のために祈りながら、この時を過ごさせてください。

(Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ルカ24:13-35

この日、(すなわち週の初めの日、)二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。