5/10 若い人のための日曜日の聖書 復活節第五主日 ヨハネ14:1-12

この1か月ちょっとで、マスクを20枚ほど縫いました。まずは自分のために、そして母と母が滞在している高齢者施設のヘルパーさん方のために、それからお世話になっている方々のために。

本当は時間がたっぷりありますから、もっとたくさん縫えるのですが、なんといってもマスクに相応しい生地がない、ゴムがない・・・。

自分のものは、古くなったTシャツや古びてしまった聖堂の布製品(祭壇布など)を再利用しましたが、プレゼント用はさすがにそうはいきません。

あれこれ端切れを探して、型紙をどうあてたら少しでも多くの枚数が作れるか、研究しながら作りました。

その昔、母から聞いた、戦後の窮乏生活に少し似ていました。

三週間ほど前に「ぬか床」を作りました。あるシスターが「野菜は安くても、市販の漬物は高い」と言っていたのを耳にして、これも母がずっとぬか漬けを作っていたのを思い出したからです。

若い時は、「ぬかみそをかき回しておいて」とか「桶からキュウリを取ってきて」などと言いつけられると、「最悪・・・」と思ったものです。そして、「私は絶対、ぬかみそを毎日毎日かき回すような生活はしないぞ」と不遜にも。

今、知らず知らずのうちに母とどこか似た道を歩んでいる自分に気付きます。そしてそれが「最悪」どころか少々誇らしいことにも。

ヨハネによる福音書の14章は、トマスやフィリポとの問答で始まりながら、いつの間にかイエス様の独白になってしまいます。実際には、弟子たちはうちそろって耳を傾けていたのでしょうが、途中からはイエス様の話についていけず、置いてきぼり(!)をくっているかのようです。

でも彼らは、その後、イエス様の受難と復活に遭遇し、それにも関わらずキリスト者として踏み止まって宣教していきます。

私は、彼らが「道」を悟ったのは、ずっとずっと後だろうと祈りの中で想像しています。

イエス様、私もトマスやフィリポのようにまだ「道」であるあなたを十分に理解していません。

でも母の「道」がやっと理解できたように、きっといつかあなたの「道」を理解させていただけるだろうと期待しながら、今はマスク作りとぬかみそに励みますね。あなたの「糟糠の妻」より。

(Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ 14:1-12

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」