「三位一体って、いつ決まったんでしたか? アタナシウス派とかアリウス派とかありましたよね」。
若き日に、神父様にした私の無邪気な質問です。
神父様は丁寧に答えてくださいました。
「いつかだれかが決めたことではなくて、神様は天地創造の前から三位一体。ずっと後になって、神様はこのような方だということを、教会が『三位一体』という言葉で表現したのです」。
なるほど。
「世界の歴史」を記すにはしては決して厚くない高校の世界史Bの教科書に、聞きなれない地名で呼ばれる公会議とアタナシウス派、アリウス派、異端、などというキリスト教の「業界用語」が出て来るのは面白いことです。
そして、ついつい頭で理解しようとしてしまう「教義」は、すべてだれかによって作為的に作られたのではなく、天地創造の前からそうだったのでしょう。
この文章を書くにあたって、ネットで調べてみたのですが、「結局キリスト教の教義は、ローマ皇帝にとって都合のよいものが採用されたのです」という高校生向きの解説文に突当り、苦笑してしまいました。
たとえそうであったとしても、「ローマ皇帝の都合」を、2000年もの間、私たちの信仰を深めるために使わせる神様はすごいなあと思います。
三位一体の主日であるこの日曜日、私たちが心に留めるべきなのは、福音の最初の部分でしょう。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
このみことばを繰り返し、この事実を、単純に喜びたいと思います。難しい言葉は、さておいても!
(Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ヨハネ 3:16-18
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。