6/14 若い人のための日曜日の聖書 聖体の主日 ヨハネ 6:51-58

白いマスクが似合っていますね!

ドラえもんとマリア様の共通点って、御存じですか?

そう、色です。 水色と白。水色と白って、人を安心させる色なのかもしれません。

昔々、イタリアのタバコといえばMSという銘柄でした。日本のハイライトに似た水色と白のパッケージで、神父様方はMSをMaria Santissima(いとも聖なるマリア様)の略語だといい、他の人たちはMonopoli dello Stato(専売公社)の略だと言っていました。(ちなみに、私は一度も吸ったことありません!)

さて、4月末の新聞の一面を使ったステイホームの広告にドラえもんが登場しました。

子どもにもわかるやさしい言葉ながら、ちょっとホロリとさせられる文面でした。ご存知でない方は、画像を拡大して、ひとつひとつのことばを味わってみてください。

「きみがおうちにいてくれたから、ちゃんと手を洗ってくれたから、家族を想ってくれたから…だいじょうぶ。未来は元気だよ」。

一方、今日、ネットのニュースで見つけた評論家の真鍋厚さんの記事に目を惹かれました。

コロナ禍によって暴かれたのは、良くも悪くもそれまでの人間関係でした。・・・テレワークに移行した途端、職場の上司や同僚と直接話す機会が減り、ひどく不安になった人々、驚くほど快適になった人々。家で過ごすことが多くなり家族との絆が深まった人々、かえって家族とのいさかいが起こりDVや離婚に至った人々。困った時に周りに相談したり助けを求められる仲間がいることに気付いた人々、いないことに気付いて愕然としてしまった人々……枚挙に暇がありません。いわばコロナ禍は「人間性を判定するリトマス試験紙」であったのです。コロナ以前であれば誤魔化すことができていた「不都合な真実」が次々と露見していきました。・・・緊急事態宣言が発令され、感染者の増加と有名人の訃報、重症化のリスクと死の恐怖が様々なメディアによって拡散され、政府の無策と失態による経済的な被害が着実に拡大していく中で、誰も彼もが多かれ少なかれ「人間性の危機」に対処する必要に迫られました。(https://news.yahoo.co.jp/articles/f8cb53d66b57b903f1970ed65df626f4354a347f?page=1, 6/12閲覧)

大きく頷かされると同時に、人間関係は、決してリトマス試験紙で測れるほど単純なものではないという思いも浮かんできました。信仰も同じです。

今回の福音は、神様と人との関係のひとつの側面を語っています。一方(神様)が他方(人)に、食べ物として自身を提供するという関係性です。食べてしまえば目の前からは消えるけれど、その人の内でその人を生かすものとなっていくのが「食べ物」です。

では神様は、逆も求めていらっしゃるのでしょうか。私たちが神様の食べ物となることを。あるいは、私たちが他者のための食べ物となることを。

いいえ、神様はこれを強要なさいません。

私がぼーっとしていても、何もやりたくなくてぐずぐずしていても、あるいは他者を生かす食べ物どころか、毒するものであっても、それでも神様は私たちの食べ物です。

わたしを食べる者もわたしによって生きる。

東京教区では、教会のミサが条件付きですが公開されるまであと一歩です。

ご聖体をかみしめられる幸せが再び訪れる日に、神様という食べ物によって私たちが生かされているという事実を、何よりも味わえますように。そして、そこから「新しい生き方、新しい信者生活」を見出していけますように、心から祈ります。

(Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ ヨハネ 6:51-58

(そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。)「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」