8/23 若い人のための日曜日の聖書 年間第21主日 マタイ 16:13-20

一昨年訪問した新潟カテドラルのいかにも「教会」らしいファザード

「教会とは、とんがった屋根の上に十字架が付いていて、ステンドグラスやパイプオルガンのある建物のことではありません」。

昔、カトリック中高で教えていた時、よくこんな説明をしていました。そうではなくて、イエスをキリスト(救い主)と信じる人々のグループのこと。

教会って何だろう。

このコロナ騒動の中で、あらためて考えた人が、特にキリスト者の中に多かったのではないでしょうか。

カトリックの東京教区の中では、教区長の菊地大司教様から、6月21日よりミサを公開してよいというお達しが出ましたが、感染症対策の諸条件をクリアしなくてはならず、さらに後期高齢者の参加は今のところまだ許されていません。これはひとえに菊地大司教様の、専門家の意見を採り入れた上でのご配慮なのでしょうが、多くの教会が、お元気な後期高齢者の活動によって成り立っていたため、もう少し若い一部の人たちに負担がかかっています。また、洗礼を望む人がいたとしても、教会にお連れできない、教会にお連れしても、信者さんたちを細分化してミサを行っているので、従来の教会らしい活気を紹介することができない等々、問題が山積です。「神様、いつまで続くのでしょうか」とつい愚痴を言いたくなります。

カトリック教会史の中には、今までにもいくつかの「曲がり角」がありました。宗教改革後の混乱に終止符を打ったトレント公会議、現代社会への適応を目指した第二バチカン公会議。そのたびに、教会活動の心臓部である典礼に大きな改革が加えられました。

今、教会はもしかしたら第二バチカン公会議以来の曲がり角に差し掛かっているのかもしれません。新しい集会の在り方を探る時なのかもしれません。

今回の聖書箇所では、ペトロの有名な信仰告白の後、イエス様はおっしゃいます。「お前を土台として教会を建てよう」。

ペトロさん、あなたがイエス様からこう言われた時、あなたはどのような「教会」の姿を思い描いたでしょう。

それは、芸術家たちが腕をふるった中世ヨーロッパの石造りの教会ではなかったでしょう。名のある建築家による近代的教会でもなかったでしょう。

イエス様を愛する素朴な人たちの集い。

「あなたは、私を誰だと言うのか」という問いに対して、「あなたは、私の愛する方です」と言える集い。

「教会」を意味するギリシア語ἐκκλησίαの元々の意味は、「人々の集い」ですから。

神様、どうかちょっとだけ愚痴を言うことをお赦しください。そして、この状況の中であっても、私たちの修道会の創立者聖マルグリット・ブールジョワがおっしゃったように、私を、私たちを「教会の娘」でいさせてください。           (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マタイ 16:13-20

イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。