忠告する、諫める・・・このような言葉を耳にしたら、どのような気持ちですか?
あるいは、忠告される、諫められる…
中高の担任をしていた頃、私は厳しい教師でした。
中学3年間受け持って、(不幸なことに!)部活でも私が顧問だった生徒が高2になった時に言われた言葉があります。
「先生の良さは、高校生にならなきゃ分からないよ」。
私の厳しさが、中学生にとってこわいだけだったとすれば、あまり良い教師とは言えませんね。
生徒をひどく叱らなくてはならなかった時には、その生徒と親しい関係のある別の生徒に、「慰めておいてね」とこっそり頼みました。頼んだ生徒は、たいていの場合、当事者の生徒の立場と私の立場に立って、よい仲裁をしてくれます。これは一対一で叱ったその場で納得させられなかった分を補ってあまりあるものがあり、結構よい結果を産みました。
さて、今回の福音箇所には、イエス様が弟子たちに語った言葉が記されていますが、福音記者マタイの、当時の教会(イエス様を救い主と信じる人々の集まり)にこうあってほしいという望みも加わっているようです。
一対一で話してうまくいかないなら、何人かで話してみる。それでもだめなら、教会全体で考えていく。
教会に限らず、あらゆる集団はこうありたいものです。
この箇所を読んで、教会活動に熱心な方が言いました。
「教会に申し出たりしたら大変なことになります」。
このことに関しては、次週の福音箇所と共に考えていきたいと思います。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ18:15-20
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」