9/13 若い人のための日曜日の聖書 年間第24主日 マタイ 18:21-35

レンブラント『放蕩息子の帰還』

私が、中高の教師生活の終盤に担任をしたクラスは、すべて小さなクラスでした。
3.11の直後に受け持った新高1クラスは、スタートの時は22名でしたが、被災地福島からの疎開をはじめとする様々な理由で1人抜け2人抜け、高2になるときには15名の極小クラスになっていました。このクラスを卒業させて、次に持ったクラスは20名でした。
以前に持った40人前後のクラスと比べると、半数かそれ以下。
人数に反比例するかのように、生徒間の親しさ、生徒と教師の交わりの深さも二倍でした。また、何か問題が起こると、もつれ方も二倍、問題が解決するといっそう親しくなるのも二倍。私自身、こんなに生徒に入れ込んでいいかしら、と思うことさえありました。

さて、先週の福音箇所で、イエス様は、何か問題が起こった時にまず一人で相手と話をしに行く。それで解決しなければ、2、3人でもう一度その人と話あう。しかしそれでも埒が明かなければ、「教会に申し出なさい」とありました。

 

当時の教会は、現代の東京のようなメガタウンの何百人も、何千人も信徒をかかえた大きく立派な建物の教会ではありませんでした。

4~5家族の集まり、多くても小さな一村の集団。お互いに生まれた時から顔も名前も知っていて、長所も短所も分かり合っている…。だから、何か問題が起こったら、うやむやにするのでなく、「みんなの問題」として共有することができたのです。

そして、このような教会に申し出て、みんなで問題に取り組んで、なおかつ解決に至らないなら、その人を見知らぬ人として扱ってもいいよ、と。

 

えっ、本当?

 

しかし、イエス様の言葉はここで終わりません。嬉しいことに、今回の聖書箇所、「七の七十倍まで」、つまり「無制限に赦しなさい」に繋がっていくのです。

 

「人と争うのでなく、人の悪と争いなさい」。

 

先日、修道院のごミサに来てくださったM神父様のお説教の中の一節です。

 

実際私たちは、「人」と「人の悪」を区別することが苦手です。そして「人」を断罪し、断罪している自分自身に嫌気がさし、いっそうその「人」を疎ましく思う…このスパイラルは、悪魔の手口と言えるでしょう。

 

これに陥ると、イエス様が、私たちを無制限に、無条件に赦してくださっていることは、どこかにすっかり忘れてしまうのです。今回のたとえ話の中の「不届きな家来」と同じです。これが一番の問題!

 

無制限、無条件の赦しは、イエス様の愛に繋がってこそ、人間である私たちにも可能になることです。

 

イエス様、どうかあなたの愛に繋がらせてください。特に、集団の中で、問題を避けたり、先送りにしたりするのでなく、あなたと共に向かい合い、そして、もしそれが解決しなくても、「七の七十倍まで」の赦しを望む者にしてください。        (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マタイ18:21-35

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」