12/6 若い人のための日曜日の聖書 待降節第二主日 マルコ 1:1-8

修道院の敷地内にあるCND宣教センター「友愛の家」の玄関で始めたアドヴェントカレンダー

「こわい!」

今度の主日の福音箇所はマルコの冒頭。

この箇所には思い出があります。

働き盛りの30代に赴任した明治学園高校では、高校一年生の宗教の授業はカリキュラムでマルコ福音書の通読と定まっていました。

約半数の生徒が小学校1年生から9年間の宗教の授業を受けています。中学から入ってきた生徒たちは、4年目。

新しく赴任した若いシスターをどのように扱おうかと、特に男子クラスの生徒たちは手ぐすねをひいていたに違いありません。

幸か不幸か(不幸なのでしょうが)、この学年の人たちとはSNSでまったく繋がっていないので(繋がっているのは、この時中学2年生だったやんちゃな学年から下の人たちばかりです)、正直に書けます。

4月当初の第一回目の授業。

宗教室には、四十数名の高一男子が、ネクタイに紺ブレで勢ぞろいしていました。

大人数には慣れていましたが、色とりどりのお花畑のような桜の聖母短大から明治学園に移ったばかりの私は、(私としては大変珍しいことなのですが、)恐怖を感じました。

彼らの内の一人から上がった第一声は「〇〇ババア!」

「あら、私が一回でも授業を終えてから言ってね」と返しながら、心の温度がすっと冷めていくような気がしました。

この一年間は本当に大変でした。

私はまさに「荒れ野で叫ぶ者の声」で、反応は極めてうすく、騒ぎ立てられるか、眠ってしまわれるかでした。

ほとんど授業崩壊(責任は、彼らではなく、彼らに慣れていなかった私のせいです)の中で、簡素な表現で本質のみを伝えるマルコの魅力を伝えることはまったく困難でした。

今回、久しぶりにマルコ福音書の冒頭を読み返し、あらためて思うことは2つ。

まず、反抗期の生徒たちであろうとなかろうと、目の前に福音を伝えるべき相手がいるのはありがたいこと。

先週の水曜日に出された東京教区長、菊地功大司教様からのお達しで、教会の活動が再び制限されています。私も、金曜日から聖書の集いをZoomですることになりました。今日は、東京に住む卒業生から「修道院でクリスマスのミサはありますか」という問い合わせがあり、「残念ながら」と答えなくてはなりませんでした。

そして、おとぎ話のような「降誕物語」からでなく、洗礼者ヨハネの証言から始まるマルコの力強さ!

降誕物語は、それはそれで、羊飼いと共におさなごイエス様を見詰めたり、マリア様とお話したりと、豊かな祈りに誘ってくれます。

マルコは、昔の預言が現実になるリアルさに味わいがあります。荒れ野で、修験者のような生活をしていたヨハネが、「まもなく、私など比べものにもならないようなお方が現れる」と仰るのです。「だから、悔い改めて、その方を待とう」と。

復活祭を待ち受ける四旬節に比較すると、待降節はクリスマスの飾りつけやごちそうの準備で、肝心の心の準備が難しい時でもあります。

この、コロナで疲弊した今年も、イエス様がまもなく生まれてくださる。

マリア様、旅の途中で、何の物質的準備もなくイエス様をお産みになったあなたにならって、私も第一に心の準備ができるよう、どうか助けてくださいね。     (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マルコ 1:1-8

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」