1/10 若い人のための日曜日の聖書 主の洗礼の主日 マルコ 1:7-11

修道院の敷地内にある宣教センター「友愛の家」のチャペルの聖母子。カトリック教会の暦に従えば、このイエス様の洗礼でクリスマスの季節が終わります。クリスマスツリーをはじめとしてほとんどのクリスマスの装飾は、先週の公現祭の後に片付けてしまいましたが、この聖母子だけ主の洗礼の日まで残しました。

女子高校生、と聞くと胸キュンになる私。

いえいえ、〇〇ハラとか、〇〇セラとか、ヘンな想像をしないでください!

健気にがんばっている女子高校生のニュースなどをきくと、以前教えていたあの生徒やこの生徒の思い出と重なってきて、胸を締め付けられる気がするのです。

さて、こんなことを書いているきっかけは、某コンビニの「お母さん食堂」という企画名にジェンダー・バイアスを感じた関西三県の女子高校生が、名称変更の署名を求めて活動した、というニュース。ある程度の署名が集まった反面、心ない大人からの「言葉狩り」「営業妨害」という中傷も浴びせられている、とのこと。

「お母さん食堂」という何気ない命名に疑問を感じ、行動に移したところに感動し、日本にもグレタ・トゥーンベリさんがいた、と誇らしく思うと同時に、「ったく、大人、何やってんの!」と一喝したい気分です。

彼女たちの主張はこうです。

「『お母さんが食事をつくるのが当たり前』というアンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)を助長しかねません。日本では女性が家事や育児をするものという価値観が強く、仕事を諦めざるを得ない女性も多いのが現状です。 『お母さん=料理』というイメージを変え、世の中のお母さんの負担を減らしたい。性別によって役割が決まったり、何かを諦めたりしなければいけない社会は嫌なんです。 コンビニは私たちの生活に根ざしていて、影響力も大きい。この名前を変えることが、ジェンダー平等な社会につながると思っています」(ファミマ「お母さん食堂」の名前変えたいと女子高校生が署名活動、「料理するのは母親だけですか?」(BUSINESS INSIDER JAPAN) – Yahoo!ニュース)

しっかりとした思考と価値観、そしてそれらに裏付けられての勇気ある行動に敬服しました。

さて、今回の福音箇所の、そしていかなる福音書のシーンにおいても「名わき役」である洗礼者ヨハネという方は、私にとって、イエス様ともマリア様とも異なる憧れの存在です。

それは、イエス様の前には深くへりくだりながら、権力者におもねることなく、世俗に対しては火のように激しく正義を求め、自分に対して厳しい生き方をされた方だから。

私たちはともすれば逆です。

目に見えない神様をしばしばないがしろにしながら、目に見える周りの人には「長いものには巻かれろ」と目をそらし、自分に対してだけはやけに寛容です。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。

ヨハネから洗礼を受けたイエス様を、神様が世に紹介する言葉です。

罪のないイエス様が、本来は受ける必要のない洗礼を受けて罪を負う人間の仲間となられた時、神様がこの行為を喜ばれた、と解釈してもいいでしょう。

これを耳にしたであろう洗礼者ヨハネもまた、神様が何をお喜びになったか、分かったはずです。

神様、私もイエス様のように、洗礼者ヨハネのように、あなたの心に適う者といつかそう言っていただけるでしょうか。

いつか、遅くともあなたのみ国でお会いする時、そう言っていただけるよう、今週は、洗礼者ヨハネのように生きる恵みをください。  (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マルコ1:7-11

(そのとき、洗礼者ヨハネは)こう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。