2月のなかば、上石神井にある無原罪聖母修道院で8日間の黙想をしました。たいていの修道会は、会の規則で、1年に一回は黙想の期間(6~10日くらい)をとることを会員に義務付けています。仕事を離れて神様と共に過ごす期間・・・本当にありがたい「義務」です!
今回ご指導してくださったのは、イエズス会のK神父様でした。神父様は初日の夜の講話で次のようにおっしゃいました。
「家族や共同体を離れて8日間もいただいているのです。変容を願いましょう」。
その静かな、しかし確固たる語り口に、私は本当に「ああ、今しかない。もう決して若くはないのだから、今しか」と思いました。そして、できる限り祈りに集中しました。
黙想は確かにその年その年の大きな区切りですが、若いうちは、たとえあまり祈りに集中できなくても、「まあいいや、来年に期待しよう」と思えました。
今はちょっと違います。コロナで、同じくらいの年の方々が簡単に亡くなっていく時代ですから、「来年」があるという保証がありません。
さて、今回の8日間を終えて私が少しでも変容できたかどうかは、これからわかるでしょう。
10年ほど前、グアテマラの霊性センターで1か月の研修の最後の10日間の黙想を終えた時、こう言われました。
「さあ、山を降りましょう。これからが始まりです」。
どんなに集中した祈りができたとしても、その後に始まる日常生活が何ひとつ変わっていなかったら、その祈りはどこか本物ではなかった、ということになるでしょう。
10日ぶりに帰院したら、私がかわいがっていた赤紫色のシクラメンの鉢が、まったく陽の当たらない寒いところに置き忘れられ、とんでもない「変容」を遂げていました。
だれも水をあげてくれなかったのか、色あせた花も黄色く変色した葉も無残にしおれて倒れていました。
あわてて水をやって、花がらを摘み、どうにもだめそうな葉も摘みました。
そして陽当たりのよいところに置いて数時間したら・・・何という生命力!
すべての茎がピンと立ちました。
葉が少なくなって、お花屋さんで買った時(去年の待降節の頃)の様子とは違いますが、私の目にはとても美しく輝いて見えました。
水と太陽と手入れ・・・神様も黙想を通してこんなふうに私を手入れしてくださっているのだ、私もきっとこんなふうに「変容」しているのだ、としみじみ思えました。
ご受難に向かう前に弟子たちに復活のお姿を垣間見させて、前もって慰めをお与えくださったのが、イエス様の変容。
私の小さな変容をシクラメンの鉢とともに、ご受難に向かうイエス様に捧げたいと思います。どんな小さな変容も喜んでくださる方に! (Sr.斉藤雅代)
※変容したシクラメンを、早速、チャペルに飾りました。変容前のしおれた様子も撮っておけばよかったです。
≪聖書箇所≫ マルコ9:2-10
(そのとき、)イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。