3/28 若い人のための日曜日の聖書 受難の主日 マルコ 15:1-39

わずか数日の桜の花も、「弱いもの」のひとつかもしれません

グレーのニットのまあるい形につぶらな目としっぽが付いている。

2週間ほど前の新聞に、「弱い技術が新潮流、コロナで変容、不器用ロボット」というタイトルの記事を見つけました。掃除や洗濯や介護をしてくれるロボットでなく、何もしないロボット「ニコボ」。マイペースで気まぐれ。なでなでされると、「モコー、あのね、えーとね」とかわいい声でモコ語を話す!

この子の動画を見て、数年前に呼んだ『ロボット・イン・ザ・ガーデン』という小説を思い出しました。

人権ならぬ「アンドロイド権」が大切にされる未来社会に住むベンの家の庭に、ある朝、壊れた古風なロボットが座っている。このロボット「タング」をなんとか修理しようとするベンとまわりの人々の物語。

ニコボとタングの共通点は、何かをしてくれるのではなく、してもらう側だということ。人間が、思わず手を差し伸べたくなる、「脆弱さ」をもっていること。そこがまさに、このロボットたちの「強味」であること。

イエス様は、何もできない幼子としてこの世に来られ、「何もできないじゃないか」と非難されながら十字架上で息を引き取られました。そしてこのふたつの時が、イエス様のご生涯でもっとも大切な「時」であるというところに、キリスト教の大きな特徴があると思います。「何もできない神」の前に、私たちの頭は不思議と下がるのです。「何もできない神」が、同時にこの世の創り主であり、私を創ってくださった方であり、やがて復活すると知っているからでしょうか。

いいえ、「何もできない」ということが、最大の価値であると、私たちがすでに気付いているからでしょう。弱さを支えようと差し伸べた手が、弱さから支え返されるからです。イエスの誕生を知っているマリア様とヨセフ様、十字架の道行きのヴェロニカやキレネのシモンは、まさにこのことを体験したのです。この日曜日から始まる受難週に、聖パウロの言葉を思い出し、「何もできない神」であるイエス様の苦しみの前に跪きたいです。

「私は、弱いときにこそ強い」(IIコリント12:10)

(Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マルコ 15:1-39

夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに問した。「お前がユダヤ人の王なのか」
イエスは、答えられた。「それは、あなたが言っていることです。」
そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。
「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」
しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、言った。「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」
祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、言った。
「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」
群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」
群衆はますます激しく叫びたてた。「十字架につけろ。」
ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」
と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、
だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。
「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。
「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」
一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。
「本当に、この人は神の子だった。」