4/4 若い人のための日曜日の聖書 主の復活の徹夜祭 マルコ 16:1-7

復活祭直前の満月

春と秋、あなたはどちらが好きですか?

源氏物語の中に「春と秋とどちらがお好き?」と、光君が思いを寄せる女君に問うシーンがありました。

いづ方にか御心寄せはべるべからむ

高校生の頃、この部分を読んで、どっちもいいな、選べないな、と思ったのを懐かしく思い出します。

今でも、甲乙付けがたいのですが、あえて選ぶなら春。

冬枯れの庭が、少しづつやわらかい緑に変化し、梅、沈丁花、イヌフグリ、ヒヤシンス、すみれ、木蓮、たんぽぽ、桜、と私の愛する木の花、草の花が次々に咲いていくのは、驚きです。どうして毎年忘れずに咲き始めるのでしょう。

そして、春分の後の満月を迎えると、次の日曜日はイエス様の復活祭!

毎年めぐってくる典礼暦は、ちょうどお誕生日が年によってその人に様々な意味をもたらすように、同じことの繰り返しでありながら、神様と私たちの関係をいっそう深くしてくれます。

さて、イエス様が死から復活してくださったのは過越し祭というユダヤ教の祭礼の直後でしたから、春でした。復活の背景として、長い眠りのような冬から、色鮮やかな春に衣替えするこの時期はぴったりですが、劇的な効果から春が選ばれたわけではありません。(この点が、聖書の記述からは、実は季節のはっきりしないクリスマスと異なっています。)

復活という出来事は、私たちの理性では把握できない出来事です。そしてそのために、「イエス・キリストの生き方には共感できるけれど、復活なんて信じられない」という人が少なくありません。私はこのような方々に、説明すべき言葉をもっていません。ただ思うのは、共感するだけなら、イエス様が他の宗教の「教祖様」と同じになってしまうということです。イエス様が神様であり、同時に私たちと同じ人間であって、しかも死者の中から復活していつも私たちと共にいてくださること、この大いなる出来事を、だれかに伝えたいだけです。

この4月で、このエッセイも5年目に入ります。教師時代、毎週1回の宗教の授業をしていたように、毎週1回何か書こうと決めて、続けてきました。たわいないエッセイをお読みくださる方々に心から感謝です。何度も「もうやめたい」と思ったけれど、恵みによって、もう少し続けたいと考えています。

イエス様、そして皆さま、ご復活おめでとうございます!        (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マルコ 16:1-7

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」