4/11 若い人のための日曜日の聖書 復活節第二主日  ヨハネ 20:19-31

毎年恒例の共同体集合写真。今年は桜に先を越されてしまいました。

エピソード1。「主の祈りが変わるなんて信じられない!」
今から20年ほど前、主の祈りが文語から口語に変わった時、私はカトリック学校で教師をしていましたが、多くの在校生・卒業生から、このような言葉を受けました。無意識のうちに永遠不変と思いこんでいたものが変わる―これは若者であってもショックなようでした。しかも、自分とはかかわりのないところで突然変わり、学校から押し付けられる…彼らにとってみれば、そんなところだったでしょう。

エピソード2。2004年にミサの中で用いられる信仰宣言が変わった時、私は日本にいませんでした。だから、と言うと言い訳になりますが、いまだに短い方の使徒信条さえ、一人では唱えられません。おそらく日本にいたら、変更の時に一生懸命繰り返して暗記したと思うのですが、そのチャンスを失ってしまったのです。

エピソード3。ここ数年間に、長い間日本で働いてくださったカナダ人、アメリカ人のシスターたちが、諸事情により次々と帰国されました。みなさん、半世紀以上祖国を離れて日本のために尽くしてくださった方々です。彼女たちの困難さは、帰国して、もちろん出身管区の修道院は温かく迎えてくれるけれど、その修道院のシスターたちとはほとんど共有する思い出がない、ということでした。それで、元日本にいたメンバー同士で頻繁に連絡を取りあって、話すことは日本のことばかり、共に祈るのも日本のためばかり、とのことでした。

さて、今回の福音箇所の使徒トマス。復活したイエス様と出会うという共同体の出来事から図らずも除外されてしまった彼は、「俺、絶対信じない! イエス様に触ってみなきゃ信じない!」。その悲痛な叫びが聞こえてくるようです。「イエス様、ひどいよ。なんで俺だけいない時に来たの?」

でもイエス様は、トマスが触れるように、ちゃんともう一度現れてくださいました。

「触ってごらん。絶対信じない、なんてもう言わないね」。

聖書には、トマスが触ったとも触らなかったとも書いてありません。

私の祈りの中では、おずおずと差し伸べるトマスの手をとって、ご自分の体に触らせるイエス様が見えてきました。そして、祈りの中で、私もイエス様の御傷に触れさせていただきました。

触れさせていただいても、私の罪深さも、弱さも変わりません。ただ、イエス様との親しさが、ほんの少しだけ深まった、と感じています。                  (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ 20:19-31

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。