5/9 若い人のための日曜日の聖書 復活節第六主日  ヨハネ 15:9-17

愛されているSさんの牛たち

「この牛、愛されている・・・」

ステイホームの連休中ののんびりした日、NHKで「新企画!やばいよう日本(1)牛乳がやばい」という番組をたまたま見ました。千葉県のある若い酪農家Sさんに案内されて、TVカメラが牛舎の中に入った瞬間のことです。その牛たちの表情は、「モーウ、大切にされていまーす」「モーウ、愛されているよー」と、見る者に巧まずして訴えかけていました。さらにSさんの語るご自分の仕事に関する一言一言に、牛への愛があふれていました。牛に名前を付け(銀河ちゃん、しぼりちゃん、ホイップちゃん、生クリームちゃんなどかわいい名前でした)、一頭一頭の牛のミルクを、他の牛のものと混ぜないで消費者に味わってもらうことを考えているなど。さらに味はよいのに、乳量の少ない牛をどのように活かすか(乳量が少ないと、処分しなくてはならないのだそうです)を語りながら、彼は涙ぐんでいました。

牛でさえ、と言ったら牛に失礼でしょうか。

Sさんが牛にかけている愛情以上に、私たちは神様から愛されている。

このことをどれほど実感しているでしょう。

牛さんたちが、言葉にできなくても酪農家の愛を感じているように、私たちは、私は、神様から、この世に生まれる前からずっと、そして四六時中愛を注がれていることを実感しているでしょうか。

そんなことは忘れて、ひたすら目の前のこと、やるべきことややりたいことに夢中になっていないでしょうか。うまくいかないことや、うまくいかない人間関係にきりきり舞いしていないでしょうか。

私たちが「友のために自分の命を捨てること」ができるとしたら、それはこの愛を実感しているかどうかにかかっているような気がします。イエス様のように、完全な形で、自分のいのちを文字通り投げ出すことはできなくても、友のために時間を捧げる(実際には、愚痴を聴くとか、共にいるとか、メールや手紙を書くとか)、友のために祈るなど。すべて「命を捨てる」小さなことです。たとえ小さなことでも、日々友のために死んだら、イエス様はきっと私たちを「友」としてくださいます。

イエス様が私の「友」って、素敵だと思いませんか?

イエス様、私が友のために少しでも死ねるように助けてください。        (Sr.斉藤雅代)

※画像は、ネットで見つけたSさんの牛さんたち。

≪聖書箇所≫ ヨハネ 15:9-17

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」