聖霊降臨の日の思い出。
20代の頃、洗礼を目指して勉強を始めると同時に、私は教会の聖歌隊に加わり、オルガンも弾き始めました。当時、私が通っていたカトリック板橋教会は小さい教会でしたが、音楽が盛んで、ドイツ製のパイプ・オルガンもありました。平日の少人数のごミサに出ると、神父様が必ず「この聖歌をお願い」とおっしゃるので、いつも初見で伴奏していました。昔ながらのカトリック聖歌集の聖歌が多かったような気がします。
半年ほどたってご復活の徹夜祭で洗礼を受け、7週後の聖霊降臨の日のごミサで聖歌隊の奉仕をしていた時、突然指揮者から「この曲を弾いて」と言われたのが、典礼聖歌集の352番「聖霊の続唱」でした。どうしてこの日のオルガニストが弾かなかったのか、今となっては分かりません。
いずれにしても、この曲は聖霊降臨の日にしか歌われませんから、前の週の聖歌隊の練習日に歌の練習はしたものの、伴奏譜までは目を通していませんでした。200名ほどの信者さんが与っている主日のミサで弾くのはこの日が初めて。譜面ずらが易しかったので、怖いもの知らずで引き受けてしまいましたが、繰り返しがあちこちにあり、そのたびに歌詞の付き方が少しずつ異なり、さんざんでした。
このところ、感染力の高い変異株を恐れて、修道院のごミサも聖歌を少なくしているのですが、明日は、この続唱を「鈴を振るような」という形容詞がぴったりの美声の姉妹に独唱してもらうことにしました。
あれからちょうど40年目の聖霊降臨です。
無我夢中で弾いた「聖霊の続唱」は、非常に内容の深い歌詞をもっていて、ありがたいことに、今は弾きながら歌詞を味わうゆとりができました。
聖霊がどのようなお方かということは、今回の福音箇所をはじめとして、随所で語られています。でも私は、短い句を連ねているこの続唱は、その年々で心に響くところが異なり、そのために聖霊への理解を毎年少しずつ深めてくれるような気がします。
貧しい人の父、やさしい心の友、さわやかな憩い、暑さの安い、憂いの時の慰め、あなたの助けがなければ…だれも清く生きてはいけない、汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方、固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方…
そういう方を、天の父とイエス様は私たちに、この私に、プレゼントしてくださっているのです。
そして「証しの力を注ぐ方」!
私たちが聖霊をいただくのは、証しするためです。
私の言葉によって、行動によって、生き方によって。
「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」。
そうです、イエス様、あなたは私が生まれる前から私と共にいてくださいました。しばしばそれを忘れて、ひとりぼっちだと思ったり、だれも私を理解してくれない、と思ったりしてごめんなさい。
私の命は、あなたの栄光を現わし、同時にそのことを周りの人に証しするためにある、というこの大きな恵みを、どうか私が忘れずに、福音宣教に励んでいけますよう、特に聖霊降臨にあたってお願い致します。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ヨハネ 15:26-27, 16:12-15
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」