7/4 若い人のための日曜日の聖書 年間第14主日  マルコ 6:1-6

今年の2月28日、四旬節第に主日のこのエッセイに、シクラメンのことを書きました。私が黙想で留守にした間にすっかりしおれてしまったシクラメンのお世話をしたら、数時間で生き返ったこと。そのシクラメンを先日、裏庭に地植えしてみました。5月頃、花が終わったから地植えにしようしようと思いながら、うまく根付くかしらと心配で、一日伸ばしにしていました。そして、1週間ほど経ったでしょうか。毎日見ていたのですが、今日、雨止みを見計らってしゃがみこみ、じっくり眺めてみると、何と葉っぱの裏につぼみがひとつ!
シクラメンの花の時期は冬から春のはず。狂い咲きかしら。

ネットで調べると、色々な夏越しの仕方があることが分かりました。

どれがよいのかよくわからないけれど、葉陰のたったひとつのつぼみが愛しくて、「ありがとう」と声を掛けました。なぜなら、私の中にも「傷付いた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消さない」(イザヤ42:3)心があることを思い出させてくれたから。

イエス様が、神様であると同時に人間であるという事実は、私たちの想像や思考の遠く及ばないところにあります。そのイエス様の心は、どれほど繊細なのでしょう。

「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」。

この言葉を口にしながら、イエス様はどのように感じていらしたのでしょう。

私たちは、祈りの中で教えていただくしかありません。

この寂しい言葉をイエス様に言わせたのは、当時のナザレの人々であると同時に私でもある、と祈りの中で気付きました。

そして、もしかしたらナザレに住み続けていらしたマリア様はさらに頻繁にこのように回りの人から言われていたかもしれません。

「多くの人々は・・・驚いて言った」とありますから、さしたる悪気はなかったのかもしれません。イエス様が、おそらくヨセフ様の後を継いで大工さんだったこと、お母さんはマリアであること、多くの親族がいたことは事実ですから。

このような言葉を耳にするとき、マリア様、あなたの心は剣で刺し貫かれたようだったでしょうね(ルカ2:35)。

どうか、私にももっと繊細な心をくださるよう、そして時を経て同じような言葉を口にしてイエス様を苦しめている私の口を清めてくださるよう、イエス様に取り次いでください。

 

≪聖書箇所≫ マルコ 6:1-6

(そのとき、)イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。