ありがとう

無心に咲く花も、神様に「ありがとう」

ある日の修道院の食卓で、一人のシスターが「ありがとう、の反対語は何だと思う?」と尋ねました。そのテーブルの4~5人のシスターたちは「何かしら」と首をかしげました。私も「愛の反対の『無関心』でもないし…」と思いながら、首をかしげました。ほんのしばらくして、そのシスターから、「ありがとう、の反対語は『当たり前』ということですって」と、ことばが返ってきました。生活のすべてを当たり前とするか、「ありがとう」ということばで受け取るかは、生活が薄っぺらなものになるか、生活が豊かになるか、確かに違ってくると思いました。

私が当たり前ではなく、「ありがとう」なのだと気づいた出来事がありました。個人的なことですが、4年前、突然左足が動かなくなり、救急車で病院に運ばれ緊急手術をしました。術後、5日目くらいにリハビリ室に連れていっていただき、立って足を動かす練習をしました。体の前にある棒に触って、うしろから体を支えていただき立とうとしても、どうしても立つことができませんでした。それでも体をよじらせながら棒に触って、かろうじて足を床に付けて立つことができました。そのとき、二本足で立つことができることが何とすごいことか、何とすばらしいことか、二足歩行というけれど、これは当たり前のことではなかったのだと心底思いました。立って足を動かすこと自体、当たり前ではなく、「神様、ありがとうございます」という出来事なのだと実感しました。その後、まわりの方々のお心遣いをよく感じるようになり、「ありがとうございます」という気持ちは多くなりました。

人間関係の基本として支えること、助けること、協力すること、受け入れること、認めること、大切にすること、尊敬するなど、様々なことがあります。加えて、「ありがとう」という感謝の心を表すこともこの基本のひとつに入るのではないかと思います。「ありがとう」は、人間関係を気持ちよく運んでいくために必要なやさしい心遣いですから。

当たり前ではなく、「ありがとう」というべき事柄は何だろうと振り返ってみました。すると、親の愛を始め、まわりの方々の思いやりなど、すべてが「ありがとう」に当たることだと気づきました。そして、「ありがとう」の最たるものが何だろうと思ったとき、次のことがおのずと浮かんできました。神様が私たちにご自分の独り子イエスをくださったこと(受肉)、イエスが私たちを生かす命の食べ物として―飲み込まれ、消化され、自らが消えていきながら―ご自分の命を与えてくださったこと(聖体)、私たちがどんなにイエスを裏切っても、神様のもとで生きる新しい命があること(復活)、そこにイエスは私たちを招いてくださることは、「ありがとう」の最たるものだと気づきました。この他にも、イエスが自然の営みの中に神様の働きを見出すように教えてくださったこと、イエスが私たち人間の苦しみや悲しみを我が事として全身で受けとめてくださったこと、十字架上において、私たち人間の罪や悪をすべて受け取ってくださったことなど、たくさんの「ありがとう」があると思います。

永遠から神様のみ心のうちにあって、この世界を生きるように送り出された私たちですが、神様のみ手のもとに帰るまで、ずっとずっと親の愛を始め、まわりの方々の思いやりと神様のいつくしみ、神様への「ありがとう」に幾重にも包まれてある私たちの命であることに、改めて感謝しました。  (Sr.兼松益子) (写真はSr.柴田香代子)